これは、遠い遠い世界の物語だ。
私たちとは違う、魔法と奇跡が満ち溢れていた世界の物語。
その世界ではいつの頃からか、何かを思って歌を唱うと――まるで歌に合わせる様に風が空を舞うようになった。
何も無いのに炎が生まれたり、突然雷が走ったりと、他にもたくさん不思議な奇跡が起こるようになった。
人々は、その奇跡に「魔法」という名を授けたという――。

とある街の空の下。そう前置きして、吟遊詩人は物語を語り始める。
彼らの歌を伝える為に。




――――――― ◆ ―――――――


 空に歌う白風の声 遠く遠く夢の彼方へ
 あの日聞こえた誰かの歌声は 幻それとも風の伝言
 蒼穹に広がる空色に……


 歌が、聞こえた。
 人通りの無いさびれた通り。そこに、主も無くただ朽ちていくのを待っているだけの、古い一件の家があった。壁は蔦に覆われてひびが入っており、玄関の扉は華麗なまでに壊れて、蔦や野草の侵入を許している。
 しかし、そこから聞こえてくるのは、幽霊の泣き声などでは無く。


 貴方の瞳の 夢を見た……


 そこから聞こえてくるのは、綺麗に澄んだ少年の声だった。歌に合わせるように、時折、辺りを仄かに光る風が吹きぬけていく。
 その家の屋根の上に、歌声の持ち主は危なっかしく腰掛けていた。一人唱いながら、ラコールと呼ばれる小さなギターに似た楽器を爪弾いている。彼の指先で、小さな光がぱちんと魔法のように弾けた。

「空に歌が届かないなら=v

 ひゅうひゅうと音を立てて風が吹き、ラコールの弦が僅かに鳴った。少年の、首の後ろで結んだ長い金髪が翻り――

「旅行く風に 代わりの=c…っ…」

 ……ぱさり、とその肩の上に落ちた。
 突然、踊っていた風が嘘の様に止んでしまったのだ。それに気づいた少年は歌を唱い止めて、悔しそうに顔を歪めた。……やがて、大きなため息をつき、投げやりに屋根の上に仰向けになる。目の前で何の悩みも無く、綺麗に広がっている空が、こういう時は少々恨めしい。
 少年の瞳の中の空を、ゆっくりと雲が流れていく。それを目で追いながら、少年は途方にくれた顔でまたため息をついた。

「やっぱり、駄目か……」

 心底がっかりした声で、確認するように呟く。
 今、少年が唱っていたのは――「空色の風唄」と呼ばれる、古くから伝わってきた風の魔法の呪文だ。この世界の人々は、魔法の込められた歌を唱い、その結果得られる小さな奇跡に支えられて生きてきた。
 声と、魔法を使おうとする意志さえあれば誰にでも使う事ができる、夢のような力。……だが、

「……どうして、僕にはできないんだろう」

 彼は、街でたった一人、魔法が使えなかったのだ。




――――――― ◆ ―――――――




『唱えない歌唄い、エルウィン』

 街の中でこの言葉を出せば、それが指しているのは彼の事だと会う人全員が教えてくれるだろう。毎日、彼がこうして人のいない場所で、歌…魔法の練習をしている事を知っている人がいるのかどうかは分からないが。
 少年……エルウィンは、目を閉じたまま耳を澄ませた。風の音は、自分を見て嘲笑ったりはしない。
 いっそ、今日は日暮れまでここにいようかな、とエルウィンはぼんやり考えを巡らせた。
 初夏の風が、さわさわとその頬を撫でていく。風と鳥の声以外は、何も聞こえない。
 ゆっくりと、エルウィンのまぶたが閉じていく。


……とん


 その時、うとうとしていたエルウィンの耳に、動物にも風にも出せないような音が届いた。半分夢見心地で、何の音だろう、と心の中で首を傾げる。
 ……動物にも風にも出せない?
 とん、とん、とその音はゆっくり近づいてくる。四回目のその音で、ようやくエルウィンは我に返った。
 こんな所に来るのは動物くらいだ、…しかし、動物の足音はもっと軽くて早い。大きい動物だとしても、そんな動物はこの街にはいない。消去法で導き出せる答えは一つだけだ。
 自分を嗤う、街の人間。

「……っ!?」

 慌てて目を開くと、視界に二つの若葉色が飛び込んできた。

「こんにちは。やっと気づいた?」

 にっこり、とその若葉色が笑う。それは、エルウィンを上からかなりの至近距離で覗き込んでいる、女性の大きな瞳だった。

「…っ、うわ……!?」

 驚いて、エルウィンが勢い良く跳ね起きる。
 一瞬の間を置いて、ごぃんっ!と、かなり派手な音が響いた。目の前がちかちかと光り、跳ね起きた体はまた地面へと倒れてしまう。痛みを憤然と訴える額を押さえてそろそろと顔を上げると、少し離れた所で同じように額を押さえている先ほどの女性が見えた。

「いったぁー……。普通、いきなり跳ね起きるかなあ……」

 じと、と恨みがましそうにエルウィンを睨みつける。その拍子に揺れた長い桃色の髪の間から、ぴんと尖った耳が見えた。若葉色の目が、涙を溜めて揺れている。
 エルウィンは、未だに動揺を抑えることができず、ぱくぱくと口を動かした。目を開けたら、いきなり見知らぬ女性が顔をまじまじと覗き込んでいたのだから無理も無い。
 心臓に悪い……と、心の中だけで文句を垂れて、恐る恐るその女性に尋ねる。

「……貴方は誰ですか?なんで、こんな、所に…っ」
「え?あたし?……失礼しちゃう、人に名前を聞くときは自分から名乗るものよ、石頭君」

 動揺しているエルウィンとは対照的に、その人物は落ち着いたものだ。ふぅ、とため息をつきながら小首を傾げてエルウィンを見ている。
 ……なんだかその顔が笑いを堪えているように見えるのは気のせいだろうか。

「………。……エルウィン=フレット、です」
「……エルウィン?まさか、君があの有名な」

 唱えない歌唄い――
 最後まで言わずに、その女性は言葉を飲み込んだ。慌ててエルウィンは視線を外したが、きっと、表情に出てしまっていたのだろう。ああ、この人も、という何かを諦めたような、そんな目をしてしまったのかもしれない。
 バツが悪そうに、その女性もエルウィンから視線を外す。

「……まあ、今はそんな事は良いわ。あたしはアージュ=クリアルと言うの。見ての通り、人じゃなくてエルフだけど」

 アージュと名乗った女性は、自分の尖った耳に触りながら笑った。それを横目で見ながら、落ち着いてきたエルウィンがぼそりと呟く。

「何でいきなり人の顔を覗き込んだりしてたんですか?」
「………う」

 小さく呻いて、アージュがぼそぼそと何かを呟く。やがて、諦めたのか一つため息をつき、

「……綺麗な歌が聞こえてきたから、誰だろうって思っちゃったの。悪かったわよ、そんなに驚かせて」
「…………」

 複雑な表情で、エルウィンが押し黙った。綺麗な歌、と魔法の力が生まれない歌を表現するのは何かが間違っているのではないだろうか。
 一方、黙りこんでしまったエルウィンを見て、アージュは落ち込んでいると勘違いしてしまったらしい。慌てて、顔の前でぶんぶんと手を振っている。

「……あー、ちょっとちょっと、そんな落ち込まないでよ。あたしが言ったのはそういう意味じゃないってば。魔法の力は感じないのに、こんなに綺麗な歌が聞こえてくるなんて意外だなって思っただけ!」

 ……フォローになってない!
 もちろん、そんなエルウィンの心の叫びがアージュに届くはずも無く、アージュは自分の言葉に満足したようにうんうんと頷いている。

「まあ、魔法にならない歌だったとしても、」

 さっきから、ぐさぐさとエルウィンに追い討ちをかけていることに、このエルフは気づいているのだろうか。
 さすがに暗くなってきたエルウィンは、アージュの言葉を半分聞き流すようにしながら、そろそろ帰ってしまおうかと考えを巡らせ――

「あたしは、君の歌が結構好きだな」

 突然聞こえた意外な言葉に、耳を疑った。弾かれたように顔を上げると、アージュは笑いながらも真面目な目をしてエルウィンを見ている。

「……今、何て言いました?」
「え?君の歌が結構好きだなーって。……何、その気が抜けた顔。しっかりしなさいよ、君、男の子でしょ?」

 苦笑して、固まっているエルウィンの頭をぽんと叩く。

「魔法どうこうは置いといて、実際に結構上手だったし。何か、魔法が使えなくて悩んでるみたいだけど、あんまり悩むと髪が白くなっちゃうわよ」

 …それは幾らなんでも無いんじゃないだろうか、とエルウィンは思った。どうやら、自分の歌が好きだ、なんて今まで言われた事がなかったので、何かが吹っ飛んでしまったらしい。この妙な発言に対する妙な突っ込みは、完全にエルウィンの現実逃避だ。……哀れな。
 その時、呆然と立ったままのエルウィンに、アージュが最後の一撃を加えた。天気の話でも持ち出すかのように、軽々と紡がれた言葉は、しかし。

「あたしもね、目が見えないんだけどこうやって一生懸命やってるし。多分まだちゃんと髪も桃い……」

 エルウィンには、衝撃的すぎた。

「……えええっ!?」

 桃色、とアージュに言い切らせる前に、エルウィンがその言葉を遮った。心底驚いたように、目を見開いている。

「ちょっと、いきなり大きな声出さないで!」
「目が見えないって……!?嘘だ、全然そんな風になんて見えない!さっきだって、普通に僕の目見て話して…!」
「ああ、あたしはエルフだから、見えなくてもその物がどこにあってどうなってるのかがちゃんと分かるのよ」

 さらり、と表情を変えずにアージュはさらに凄い事を言ってのけた。信じられない、と呟いているエルウィンを尻目に、一人で話を再開する。

「まあ、空や森は何色かとか、人の顔とか表情とか、そういうのが分からないのは寂しいけど。……要するに、あんまり物事考え込んじゃ身体に悪いって言いたいの。綺麗な歌だったし、きっとそのうち魔法も使えるわよ。あたしもね、もう百八十年真っ暗な世界に住んでるけど、最近は医術も発展してきたから……。もうすぐ、この目も治るらしいの。だからわざわざあたしの大好きな森からこんなうるさい街に来てるのよ」

 口調とは裏腹に、その表情はとても嬉しそうで。

「ねえ、あたしもうしばらくこの街にいるの。明日もまた、君の歌を聞きに来てもいいかしら?空色の風唄、もう一度聞かせて。途中までしか聞こえなかったから」

 頭が決断を下すより先に、エルウィンはおずおずと頷いていた。




――――――― ◆ ―――――――




……僕の歌を 嗤わない人がいた




――――――― ◆ ―――――――




 ここまでが、唱えない歌唄いのエルウィンと、光を見る事ができないエルフのアージュとの出会いの物語だ。
 ……えっ?この後は、どうなったのかって?
 私がこの物語を聞いたときには、確か…そう。アージュは、約束どおり、それから毎日エルウィンの所へと遊びに来た。エルウィンも……最初はともかく、段々彼女と打ち解けて、歌を聞きに来てくれる事を楽しみにしていたそうだよ。
 しかし、一週間、二週間と経っても、相変わらずエルウィンは魔法を使う事ができなかった。その事で落ち込むエルウィンを、アージュは、……時には逆に傷つけながら……励ましていたのさ。
 アージュは、街にいる間、目の病院に通っていた。まあ、それが目的で街に来たのだからね。その経過を毎回エルウィンに報告して、だから、エルウィンもあとどれくらいで彼女の目が光を取り戻すのかよく想像できた。『空色の風唄』の空色とはどんな色なのか、アージュは楽しみにしていたそうだ。
 ……え。そんなんじゃなくて、ちゃんとした物語の続きを聞かせて欲しいって?
 分かった、分かった。じゃあ、今話した所の続きから、物語をまた始めてあげよう。
 それは、アージュが「もうすぐ目が見えるようになるかもしれない」と、嬉々としてエルウィンに報告した――その次の日から始まる話だ。




――――――― ◆ ―――――――




「おかしいなあ……」

 夕暮れの光の中で、ぽつりとエルウィンは呟いた。西を振り返って見れば、もう太陽は随分傾いている。すぐに夜がやって来てしまうだろう。
 ……いつもならば、彼女はとっくに来てくれているはずの時間なのだが。

「目の何かで、手間取ってるのかな……」

 治療も山場だと言うから、時間が掛かっているのだろうか。
 ラコールで適当に曲を爪弾きながら、エルウィンは首を傾げた。いつもなら、自分の歌を聞きに来るアージュが、今日は何故か夕方になってもやってこないのだ。

「……夜までここにいるのは、さすがに危ないか」

 独り言を呟いて、エルウィンは立ち上がった。両親はいないから誰かに心配をかけることは無いが、こんな街の外れに夜までいるのは危険すぎる。夜の闇と仲の良い奴らにでも会ってしまったら、歌も唱えない自分はどうやって身を守ればいいのだ。
 最後にもう一度だけ屋根の上から街を振り返って、アージュの姿が見えない事を確認すると――とん、とエルウィンは屋根の上から飛び降りた。

 そして、次の日。
 いつもより少し早めに来たつもりだったエルウィンは、屋根の上に先客を見つけて驚いた。エルウィンの足音に、その先客がゆっくりと振り返る。

「……アージュ…さん?」

 唖然として、エルウィンの足が止まる。アージュは、ふっと笑顔を顔に浮かべて、顔にかかった白い髪を手で払った。

「おはよう、エルウィン。……何?どうかした?」
「……え、あ…。アージュさん、その髪……?」
「……ああ、これ?」

 困ったような顔をして、アージュが舌を出した。

「やっぱり白くなっちゃったか…。あたしは気にしてないつもりだったんだけどなあ」
「やっぱり、って……。……昨日、何かあっ」
「あのね」

 エルウィンの言葉を遮って、アージュが口を開く。その表情は、いつもとほとんど変わらないのに、何故かとても悲しそうに見えた。

「目、もう無理なんだって。いつか、もきっと、も無くて、一生このままなんだってさ」

 告げられた言葉に、エルウィンは言葉を失った。おととい、とても嬉しそうに目がもうすぐ治るとはしゃいでいた姿が、一瞬脳裏を掠めて消える。

「え……?」
「酷いよねえ、最後の最後で、あたしの目が見えない原因がやっと分かったなんて。あたしには良く分からなかったけど、とにかく、この先どう医術が発達しても、一回生まれ変わりでもしないともう無理なんだって」

 エルフの一生なんて長すぎるよ。
 うんざりしたように言ってのけるアージュを見て、エルウィンは何も言えなくなってしまった。
 この人は、落ち込むことに慣れていなさすぎる。自分自身が泣いていることにも気づいていないなんて。

「……………」
「うん、だからさ……あたし、今日これから森に帰る。もう、この街にいても仕方が無いし。君の歌がもう聞けなくなるのはちょっと残念だけど、今までありがとう。時々は森に遊びに来てね」

 笑って、アージュは立ち上がった。何も言えないままのエルウィンの頭を、いつかと同じようにぽんと叩く。

「……じゃあね、唱えなくても上手な歌唄い」
「……、待っ…!」

 口を開いたエルウィンの横を、黙ってすっと通り過ぎる。とん、とん、と遠ざかっていく足音に紛れて、

 ぽたん、と涙が一粒零れる音がした。


 ――――ピン……!


 耳に届いた音に、アージュの足が止まる。ふっと後ろを振り返ると、エルウィンが必死の表情でラコールを握っていた。

「……エルウィン?」

 訝しそうに呟いたアージュを、何も言わずにじっと見返す。
 握っていた右手を解いて、その手を、ゆっくりとラコールの弦へと近づけた。
 
 その空色の瞳には、何かを心に決めた事を示すように、強い光が宿っていた。




――――――― ◆ ―――――――




『あたしは、君の歌が結構好きだな』
 
 友達の為に願った事なんて無かった
 本気、で魔法を使おうとした事も
 本気で、歌を唱いたいと願った事も
 今思えば……無かったんだ

 僕に出来る事は何だろう?


君に笑顔が戻りますように




――――――― ◆ ―――――――




 エルウィンの指が、ラコールの弦に触れた。曲を奏でるために動き出す指先から、アージュにとっては聞き慣れたあの曲が零れ始める。そして、エルウィンはふっと目を閉じると、口を開いた。
 ――……空気が、震え始める。 

「空に歌う白風の声 遠く遠く夢の彼方へ
  あの日聞こえた誰かの歌声は 幻それとも風の伝言
  蒼穹に広がる空色に 貴方の瞳の夢を見た
  空に歌が届かないなら 旅行く風に代わりの歌を
  誰かを思う儚い祈りを 共に届けてくれますように=v

 ……空色の風唄、だった。
 背を向ける事が出来なくて、アージュは、悲しげな表情のままでそこに立ち尽くした。目がもう治らない事を告げられる前までは、ただ純粋に楽しく聞く事が出来ていたのに、どうして今は、こんなにも悲しく聞こえるのだろう?
 立ち尽くしたままのアージュと目を閉じたままのエルウィンの間を、歌は尚も流れていく。まるで時間が止まってしまったかのように、風さえも吹かず、エルウィンの歌声以外は何も聞こえない。

「無力に立ち尽くしても この歌だけは翼を抱いて=v

 表情を変える事無く、エルウィンの歌を聞いていたアージュは、……ふと、目を瞬いた。先ほどまで全くの無風だったはずなのに、自分の頬に何かが触れて、髪を揺らしている?

「この思いにだけは 翼を与えて
  夢の歌のまま 終わりにはしない
  空色の風唄に託して 遠い貴方に届けるから
  願えばいつか必ず叶うと あの日教えてくれたのは=v

 エルウィンの歌に合わせて、アージュの髪が大きく揺れた。
 ―――……魔法の風。
 その何か、が何なのかを理解すると同時に、

「………っ!?」

 アージュは、目を見開いて息を呑んだ。
 真っ暗なはずの自分の世界で、一瞬何か違う物が見えたのだ。それは、瞬きをしてみても消えずに、暗闇を払う様にして、エルウィンの歌と共にますます広がっていく。

「透明な空の彼方で微笑む 貴方だったのだから
  希望の色をどうかもう一度 果てしない空に重ねて=v

 やがて、初めはアージュの髪に触れていた風が、ゆっくりと渦を巻き始めた。エルウィンとアージュとを巻き込んで、時折小さな光の筋を描きながら、波紋のように広がっていく。
 そして―――

「君に 空色を届けよう――=v

 ぱん、と音を立てて、渦を巻いていた風が割れた。爆発したかのように空色の光が溢れ出し、辺りを包み込んでいく。
 当の本人…エルウィンまでもが驚いて目を開いたが、あまりの眩しさに空色の光しか分からない。
 視界の全てが、空色に染まる。
 それはまるで、空の中に浮かんでいるかのようだった。
 風の歌声以外は、何も聞こえない―――




――――――― ◆ ―――――――




 どれほど時間が経っただろうか?
 もしかしたら一瞬だったかもしれないが……やがて、その光は雪が溶けるようにゆっくりと薄くなってゆき、最後に小さなきらめきを残して、消えた。
 視界に、いつも通りの屋根の上が戻ってくる。ラコールを握り締めたまま、エルウィンはへなへなとそこに座り込んだ。

「………ルウィン……?」

 その耳に、小さな声が届く。まだどこか放心しながら顔を上げると、少し離れた所で、同じように呆然としているアージュと目が合った。
 その若葉色は、初めて会った時と少しも変わらない。

「……す」

 やがて、落ち着きを取り戻してきたアージュの瞳が輝き出した。急に勢い良く立ち上がり、驚いたエルウィンが反応するよりも早く、その肩を両手でがしっと掴む。そして、

「すごい……!エルウィン、今の――今のが、空色なの!?見えたの!あたし、真っ暗じゃない何かが、見えたのよっ!目の前が真っ暗じゃなくなって、すっごく綺麗な何かが広がって……今はもう見えないけど、あれが空色なのね……!」
「ちょ、アージュさん、苦しっ……」
 
 がくがくと揺さぶられながら必死で抗議をしてみるが、感動で胸がいっぱいなアージュには全く聞こえないらしい。
 目を潤ませながら、尚も言葉を続けている。

「本当にすごいわよ、もうあたし感動しちゃった!ありがとうエルウィン、もうあたし泣き言なんて言わない!絶対、もう一度自分であの空色を見るの!本当に、ありがとう…!」

 そこまで言って、アージュはようやくエルウィンを開放した。自分の横で、エルウィンが冷や汗を浮かべて目を回している等とは気づかず、アージュは涙で潤んだ目を押さえていたが――、ふと、思い立った様にその指を離した。

「あ、言い忘れる所だったわ。……エルウィン、おめでとう!」
「……え?」

 突然向けられた祝福と笑顔に、拍子抜けしてエルウィンが首を傾げる。アージュもまた、そんなエルウィンの反応に少し拍子抜けした様だったが、すぐに気を取り直したのか、くすりと笑って同じように首を傾げた。

「人生最初の魔法を使った感想はどうなのよ?」
「……え、………あっ!?」

 無我夢中だった為なのか、今の今まで全く自覚していなかったらしい。魔法が使えたという事と、それに気づいていなかったという事の二重のショックを受けて、目を見開いて絶句するエルウィンにアージュは噴出した。

「もうっ、あんなに練習してたのに、いざ使えたら言われるまで気づかないなんて――どれだけ夢中で唱ってたの?」
「……わ、笑わなくても……」

 ぼそぼそと呟きながら、改めて自分の手とラコールを見下ろす。それから顔を上げて、笑顔のアージュとその後ろの空を見て――、エルウィンは、嬉しそうに笑みを浮かべた。


 魔法は、希望は、誰か≠ェいて初めて成立する。

 彼は、これから先永遠に、『唱えない歌唄い』等と呼ばれる事は無かったと言う――。




――――――― ◆ ―――――――




 ――……めでたし、めでたし。
 さあ、これで本当にこの話はおしまいだ。
 ……そんな納得いかない顔をしないでくれるかい。私が知っているのはここまでなんだから。
 ……分かったよ、分かった。嘘をつくのはやめるから、タダ聞きは勘弁してくれないか。
 ……アージュは、その後エルフの森へと帰った。そこが彼女の居場所だからね。でも――彼女の髪は、元の美しい桃色に戻っていたらしい。
 彼女の目が、その後見えるようになったのかどうかは私も知らないが、きっと彼女は不幸せではなかっただろう。
 ……エルウィンはどうしたかって?
 …………。……さぁ、私は、彼はその後街で暮らしたとしか聞いていないな。ただ、魔法が使えなかった事には何か理由があったらしい。その理由を私に聞かないでくれよ。

 最後に、一つ不思議な事を教えてあげよう。エルウィンの唱った歌は、風の呪文であって、あんな――空の色を見せてあげるようなものじゃなかったのさ。
 だったら何故、あんな事が起きたのかって?
 ……今度会ったら、教えてあげよう。それまでは、君が考えていると良い。もしかしたら当たっているかもしれないよ。

 これは、遠い遠い世界の物語だ。
 だけれど……そう。エルウィンが唱った空の色は、きっと私たちの見ている空と同じ色をしているだろう。
 綺麗に透き通った、希望の蒼色をね。
 
 お話は、これで終わり。歌と魔法と奇跡の物語―― 

 
 ……そう言って、私に物語を話してくれた吟遊詩人は、楽しそうにぱちんとウィンクをしてみせた。
 果たしてこれが本当にあった物語なのか、それともただの儚い空想なのか……全てを知っているのは、空を吹き抜ける白い風だけだ。
 
 空色の風唄に、耳を済ませてみると良い。
 もしかしたら、教えてもらえるかもしれないから―――。

 これは 初夏のとある街で語られた 不思議な物語の物語。





「貴方の空の色は 何色ですか?」




――――――― ◆ ―――――――


空に歌う白風の声 遠く遠く夢の彼方へ
 
あの日聞こえた誰かの歌声は 幻それとも風の伝言  
蒼穹に広がる空色に 貴方の瞳の夢を見た

空に歌が届かないなら 旅行く風に代わりの歌を
誰かを思う儚い祈りを 共に届けてくれますように

無力に立ち尽くしても この歌だけは翼を抱いて
この思いにだけは 翼を与えて
夢の歌のまま 終わりにはしない
空色の風唄に託して 遠い貴方に届けるから

願えばいつか必ず叶うと あの日教えてくれたのは
透明な空の彼方で微笑む 貴方だったのだから

希望の色をどうかもう一度 果てしない空に重ねて

君に 空色を届けよう――


Fin


2006年 文藝部誌「EMPIRE」 文化祭号掲載




そんな訳で、私の文藝部での始まりの作品です。
今読み返すとものすご恥ずかしくてゴロゴロしたくなっちゃうような作品なんですが、当時精一杯愛情込めて書き上げた作品だったので、愛はあります(´ワ`*)
その年の文化祭号のテーマが「色」だったので、空色を前面に押し出してみました。
拙い文章から、少しでも空の色を浮かび上がらせていられたら幸い。
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