グレースケール。
 自分が壊れていく、切れ切れの実感。
 責める、嗤う、声は、やがて外からではなく、
 内、から。
 少しずつ。
 呪いのような。
 離れなく、なる。
 声。
 ……弱かったの、は?

 自己否定。
 どこから始まったのかさえ。
 自分自身の存在理由について問いかけ、
 やがては存在価値に疑問を覚え始め、
 弱かったのは、誰だ、と。
 繰り返す、声、
 声が、やがて、
 俺自身のものへと変わっていく。
 自己不信、他己不信、自信喪失、自尊心欠落、自己喪失、感情欠落、
 そして、


 立ち向かうことを止めた時からこうなる事は決まっていたと?
 ――全ては、俺の幻覚だったのかもしれない。
 灰色の記憶の向こうには、もう、俺は戻れないのだから。




+・◆・+


 四月二十四日 AM8:46

 足元の枝が嫌な音を立てて、俺は思考の淵から引き戻された。脳裏に浮かんでいた景色の断片が弾けて、消える。同時に、俺が今いる場所が一気に俺の中へと戻り込んできた。
「…………、…またか……」
 この時の感覚は、水面から顔を出して、息を継いた時に似ている。
 死神になる前から、こんな感覚を味わうのはしょっちゅうだった。だから、今更どうという訳でもない――筈なのだ。本来なら。
「何で今更……」
 誰にともなく呟いて――みし、という木の軋む音に返事をされた。…そろそろ危ないか。
 視線を上げて、良さそうな屋根を見つけると同時に枝を蹴る。数十メートル程の距離を飛んで、俺は誰かの家の屋根に足を下ろした。……、やっぱり木の枝なんかより何処かの家の屋根の方が良い。足元の心配をしなくて済む分、かなり楽だ。
「さて、と……」
 落ち着いたとたん、再び浮かび上がってこようとする記憶を押し込めて、俺はもう大分薄汚れてきたファイルを開いた。感情の抑圧なら慣れっこだ。……まあ、良いことなのかは知らないが。
 三十七パーセント、の数字を確認して(相変わらず普通の人間にしては高いままだ)、俺はふっと屋根の下に目線を投げる。ちょうど、二人組――夕奈とその母親――が通りかかる所だった。……とりあえず、此処からなら夕奈に見つかることもないだろう。
「あのねおかーさん、それでねっ、きのうはね、せんせいがみんなにビデオみせてくれたんだよ! えーっとねえ、おひめさまの! しら…しらゆきひめ? うん、そう、しらゆきひめ! それでね、しらゆきひめがね、リンゴたべちゃって、でも、おーじさまがきてね、たすけてくれるんだよ! ゆうな、しらゆきひめがリンゴたべちゃったとき、ほんとにこわくて、みっちゃんもどうしようどうしようって――」
 ………。……今までも何度も此処は田舎だと思っていたが、それがまた今日上書きされた。夕奈のマシンガントークがモロに屋根の上まで響いてくる。とりあえず、俺の視界には、夕奈たちを除いては人も車も一つもない。イコール、騒音がない。…夕奈が凄いのか、この環境が凄いのかは分からないが、……筒抜けだぞ、お前。俺が近くにいるってことくらい分かって…忘れてるんだろうか、もしかして。…そんな気がする。
 俺が呆れを含んで吐き出した溜息は、夕奈の無邪気な笑い声に簡単に掻き消された。頬を赤く染めて、母親に相槌を貰っているのを良いことにまだ話し続けている。……疲れないんだろうか、子供ってものは…。
「――なんだけど……それで、だからね、ゆうなもへいきだよ! ゆうなもね、しなないんだよっ」
 …………なに?
 聞き流してかけていた声が、ふいに耳に刺さった。適当に空へ向けていた視線を、一気に地上へと降ろす。夕奈の隣で、夕奈の母親もまた、俺と同じように驚いた顔をして夕奈を見つめていた。…が、その表情はすぐ笑顔に戻って、どうして? と夕奈に問いを向けるのが聞こえた。夕奈が、子供特有の内緒話をする時のような顔で笑い返す。
「えっとね、ゆうなが……あ、ちがうよ! ゆうな、しらゆきひめみたいに、まちがってリンゴたべちゃったりしないよ! えと、それで…もしね、ゆうながしんじゃったりしてもね、かっこいいおーじさまがきて、ゆうなのこと、たすけてくれるんだよ! だからね、ゆうなもしなないの!」
 とっておきのことを見つけたとでも言わんばかりに、目を輝かせて夕奈は語る。その満面の笑顔に、俺は黙って目を逸らした。そっか、良かったね――夕奈の母親の声が続く。……大人も大人で残酷なものだ。……というか、白雪姫は厳密には死んでいないんじゃなかったか? ……子供にはどちらでも大差はないか。
 思考を打ち切って顔を上げ、慌てて立ち上がる。ぼんやりしてる間に、夕奈達に随分距離を離されてしまった。五メートル離れただけでヒヤヒヤしていた、夕奈と会った日から考えれば嘘のようだ。……こんなに長く側にいさせられれば、緊張感を持てと言う方が無理なんだ、そもそも。
 しっかりしろ、と自分を叱咤する。うっかりあいつの魂を保護し損ねたりでもしたら――考えたくもない。
 息をついて、翼を広げる。飛び立つ前に、次の足場になりそうな屋根を探して視線を巡らせ――
 ばちん、と視線が合った。
「……っ!?」
 ……よりによって何でこんなタイミングで振り返るんだあいつは! 同時に向けられた笑顔から思いっきり視線を外して、俺はしばらくそのまま固まった。……ストーカーでもあるまいし、これが俺の仕事なんだからどうと言う訳ではないが、……やっぱり、人に見えるというのは調子が狂う。そろそろと視線を戻して、夕奈があっさりと前に向き直っているのを確認すると、俺は改めて屋根を蹴って空へ向かった。
 視界が広がり、木立の先に見慣れてきた保育園が映る。増えてきた親子連れが、今日の始まりを容赦なく告げていた。





+・◆・+




 改めて計算すると、俺が地上に来てから一ヶ月近くが経過していることになる。……とは言えその半分くらいは、夕奈が欠席を繰り返していたので大して苦ではなかった。夕奈の家の屋根の上で、ファイルの示す数字にさえ気をつけていれば良かったのだから。…だが、残り半分くらいは夕奈もそれなりに元気で――俺もこうして保育園まで付いて行かなければいけなかった。
 夕奈の母親か父親が迎えに来るまで、俺は保育園の敷地内の木の上辺りで暇を潰すしかない。正直言って、保育園で死ぬような運命なんてほとんど想像出来ない……が、万が一を考えると、屋根の上で待っていることは出来なかった。
 とにかく…そこまではまだ良い。そこまでなら――
「せんせえ――! たっくんとまーくんがあっちでケンカしてるーっ!」
「ちが、ちがうよ! たーくんがさきにボクのことたたいたんだよッ!?」
「ちがう! まさしがおれのことさきにばかっていったんだろ!」
「いってない!」
「いった!」
「いーってーなーいーっ!」
 ――― ……夕奈一人でも十分頭が痛かったのに、子供の大声ってのはどうしてこうキンキン響くんだ。……割と距離を取ってる筈…だよな……。
 喧嘩の声と仲裁の声とを聞き流しながら、俺は暇つぶしにまたファイルをぱらぱらと捲った。初日はこの声のせいで、頭痛と溜息とに延々縛られていたが、いい加減に慣れてもくる。……今は正確には違うとは言っても…人間のこういう環境適応能力は偉大だ。
「ふう…」
 最近の溜息は、専ら退屈のせいで零れるものになってきていた。
 ……暇、だ。本当に。担当者の死が近いと分かっているのならまだしも、死神の方にまで死の運命がさっぱり分からないなんて、途方にも暮れたくなる。風景を眺めるにも限度があるし、俺はあまりそういうことに楽しみを感じられない。
「暇、だな……」
 口に出してみる。……悪化した。
 死神になってありがたかったことなんて、こういう時に空腹やら睡魔やらと闘わずに済むことくらいだ。
 せめて読書くらい出来ないかと考えたこともあったが、それは一般人から見れば木の上で本が勝手に浮かんでいる上に、勝手にページを捲られていることになってしまう――面倒なので諦めた。うっかりそのせいで魂の保護をし損ねたら、という恐怖があったことも理由かもしれない。
「…………ふう…」
 結局、またファイルに目を落とすことになる。それでいて読む訳でもわく、適当に文字を拾い読みしていると、ふいに、耳に羽音が聞こえた。
 顔を上げると、黒い翼が空の青を横切った。俺のことが見えていないのを良いことに、俺のすぐ隣の枝へと留まる。そのまま楽しげに喚き始めた。
 …………。
 移動するのも億劫だったので、無視することにした。……カラスなんか嫌いだ。
「――― …………」
 意識の底で、微かな記憶が首をもたげる。条件反射で押し込めた。
 あまりに暇すぎると、本当に些細な切欠で、思い出さなくても良いことまで思い出したり、考えなくても良いことまで考え出してしまう。……だから、好きではないのに――
 ふっ、と頭を振って思考を打ち切る。このままじゃ本当に悪い癖が再発しかねない。太い木の枝に付け根に深く寄り掛かると、俺は本気で思考をシャットアウトした。ファイルの、現想定死亡率が示されるページを開いて、立てた両足を支えにして固定する。その蒼い数字だけを見つめる。それ以外は全て締め出した。……今日は正直調子があまり良くない、うっかりまた過去の記憶のループに嵌ってしまうのは勘弁して欲しかった。
 ゆらゆらと揺らぎ、微かに値を上下させるその数字を見つめ続ける。




+・◆・+




 変化が起きたのは、空が少しずつ赤く染まってきた頃だった。揺らめいていただけだった数字が、ふいに焔のように燃え、一気に数字が三十程跳ね上がったのだ。弛緩していた身体が、慌てて跳ね起きた。
 ファイルを引っ掴み、夕奈がいる筈の保育舎に目を向ける。……見た限りでは、特に変わった様子はない。が、…次の瞬間何が起きるかも分かったもんじゃない。俺は木の上から飛び立つと、保育舎のすぐ近くの遊具に降り立った。部屋の中から、高い声が微かに聞こえてくる。
「せんせー、ゆうなちゃん、だいじょうぶ? ねえ、だいじょうぶなの?」
「大丈夫よ、先生、今から夕奈ちゃんのお母さんに電話してくるからね。ちょっとお熱があるだけよ。大丈夫だからね、心配しないで」
 声に続いて、扉が開いた。先生らしき人物が、夕奈を抱いて心配そうな笑顔を浮かべながら出てくる。ちら、と見えた夕奈の顔色はいつもの白じゃなく、赤だった。…とは言っても、普通の子供に比べればそんなに変わらない。多分、聞こえた声から判断しても、微熱か何かが出たんだろう。
 実は、こういう事は以前にも一度あった。その時は、二日三日休んだ後何事もなく登園していたから、きっと今回もそれと同じ――
「…………」
 脳裏を、ちり、と蒼い数字が掠めた。
 まさか、いくら病弱でも微熱で人が死んで溜まるか。……今回もきっとまたすぐ数字は下がって、何事もなくあいつは生き延びて、俺はまだ地上に居残ることになるんだろう。
 この先を想像して、溜息を一つ吐き出す。とん、とジャングルジムの天辺を蹴って、俺は夕奈達の後を追いかけた。




+・◆・+




「…疲れちゃってたのね。今日はこのまま寝てなさい」
 夕奈の額に宛てていた手を離して、慣れた様子で夕奈の母親が苦笑するのが見えた。あの後知ったのだが、彼女は看護士と言っても近くの小さな診療所の看護士だそうで――俺の想像とは違い、夕奈が具合が悪くなったと言ってはちょくちょく帰ってきて面倒を見ている。あの後も、連絡が入るとすぐに駆けつけてきた。見る限りでは、俺が来る前からこういうことは日常茶飯事だったようだ。
 ふわり、と大きくカーテンが揺れて、二人の姿が俺の視界から消えた。
 蒼い数字がどうしても脳裏から離れず、俺は今、夕奈の部屋のベランダにいる。右手には、あのファイル。蒼い数字は相変わらず高いままだ。ギリギリ、部屋の中が見えるか見えないかの位置を選びながら、俺はそろそろと足を一歩前に出した。風が吹けば、カーテンが大きく揺れて、二人の姿はあっという間に見えなくなってしまう。……夕方になって、昼よりは大分風が出てきた。カーテンが大きく揺れて、忙しない。…病人いるなら窓閉めないか、普通。
 はためくその動きを、無意識の内に目で追いかける。切れ切れに見える部屋の中で、ちょうど、こくん、と夕奈が頷くのが見えた。その表情があまりにも弱弱しくて、俺の胸の中のまともな部分が少しだけ傷んだ、気がした。……普段とのギャップが激しいせい、だろうか。
 普段はあんなにうるさい声で喚いているのに、今の夕奈の声は此処からでも全く聞こえない。口の動きを見るくらいが限界だ。
 何かを言っているらしい夕奈の側に膝を付いて、夕奈の母親がそっと首を傾げた。
「………なに? …りんご? りんご食べたいの? ……分かった、それなら、お母さんちょっと買ってくるから。……ほんの少しだけ…おるすばん、できる?」
 夕奈の口が小さく動く。母親が、頷いて笑顔を浮かべて見せて、夕奈の頭を撫でて立ち上がった。こちらへと歩いてくる。……あ、やっと気づいたのか。窓。さすがに開けっ放しは悪いだろうどう考えても、……――?
 すっ、と夕奈の母親は俺の横を通り過ぎ――
 
――からからから、……ぴしゃん。
 
 ………ぴしゃん?
 『背後』で響いた音に、俺は振り返り、……固まった。
 …………何で俺、ベランダじゃなくて部屋の中に立ってるんだ?
「じゃあ、夕奈、お母さんそこのお店まで行って来るね。他になにか食べたいもの、ある? …いい? じゃあ、出来るだけ早く帰ってくるから。待っててね――」
 トドメを刺すように、ぱたんと部屋の出口まで閉ざされた。
 しばらくの間固まってから、ようやく俺の頭が状況を把握した。……多分、無意識の内に俺は会話か何かを聞こうと足を出して、……部屋とベランダの境を踏み越えた。多分俺に自分の行動を自覚させてくれただろうカーテンは、ちょうど大きくはためいて俺に道を空けていた…としか、思えない。……あの死亡率数値のせいで気もそぞろだったから――って、フラフラ部屋まで入り込むか、普通!? 馬鹿か俺は……!? と言うか、たかが死亡率が上がったくらいで、もう何度も経験してきたことだ、何で、何をうろたえてるんだ俺は――――――

 ―――自分の弛み具合を切欠に生じていた自虐的暴走思考は、ふいに沈黙を破った鳩時計の音にようやく掻き消えた。我に返ると同時に、五感が拒否していた世界が帰ってくる。静かな部屋に、時計の音がうるさかった。
 ……出よう。とりあえず。屋根の上くらいなら、もし万が一のことがあっても、抜け出た魂の保護には十分間に合う距離だ。夕奈の母親が帰ってきてしまう前に、…出来るだけ急いで。俺がどれくらいの間自分の中に沈んでいたのかも判断出来ないのだから。
 そう決断して、踵を返す。幸い、窓には鍵が掛かっていない。いちいち外から鎌で施錠しなくても大丈夫そうだ。…此処が田舎で良かった。
 出切るだけ音を立てないように気をつけて、窓に手を掛ける。カラ、と小さな小さな音がサッシから生まれて、
「――しーが?」
 唐突に、予想していたよりも大きな声が、部屋の中に響いた。  
「……そこ、いるの?」
 ……あまりにも静かだから、てっきり眠っているものと思っていた俺が馬鹿だった。初めてこの部屋へ来た時の記憶が、ぼんやりと蘇る。少し躊躇ったが、このまま出てしまえ、と俺はもう一度サッシを鳴らした。
「ねえ、いるんでしょ」
 きしん、とベッドが軋む音に、泣きそうな声が被さった。……このまま放って出たら、もしかして本気で大泣きされるんだろうか。
 さすがにそれは無いんじゃないか、という声を聞きながら、結局俺は振り返ってしまった。ベッドの上で体を起こした夕奈と目が合う。
「……やっぱりいたー」
 安堵したのかがっかりしたのかは分からないが、そう呟くと同時に夕奈はぱたんと横になってしまった。そのまま動かないので、俺はまた窓の方へ向き直り、……とたん、また、呼び声に阻まれた。
「………何だよ?」
 刺々しい声だな、と何処か遠くで自覚しながらもう一度振り返る。
「あのね、こっちきて」
「何で」
「ゆうな、ひとりキライ」
 ……自分で留守番を平気だと言っておきながら勝手なことを言う。面倒な奴……。
 溜息を吐き出して、俺はのろのろとベッドの側へと近づいた。ちょうど側に小さな椅子が転がっていたので、引き寄せて腰掛ける。ふいと見下ろすと、俺を見上げていた夕奈と目があって、すぐに俺から逸らした。
 しん、とそのまま沈黙が降りる。近くで見ると、夕奈の症状は本当に全然大したことはなかった。顔が赤くて少し元気が無い以外、ほとんどいつもと変わらない。……やっぱりまだ、帰ることが出来るのは先になりそうだった。
「……ねえ、しーが」
 また唐突に、沈黙が破られる。今度は何だと思いながら顔を向けると、何故か、小さな右手が伸ばされてきた。反射的に、少し身を引いてしまう。眉をひそめながら夕奈を見ると、見上げる目がまだ俺を見ていた。少し辛そうに目を細めながらも、夕奈は突き出した手を戻さない。
「て、ぎゅってしてて」
「………はぁ?」
 しびれを切らしたように告げられた言葉に、俺の声が思い切り裏返った。
 少し遅れて、言われた言葉を理解し始めると同時に、俺の頭の中が疑問符でいっぱいになる。……死神に? 普通言うか、死神に、そんなこと? と言うか、苦しい時に死神を呼ぶとか、改めて考えると思いっきり矛盾してないか、何考えてるんだ、こいつ。……子供だからか?
 物凄い違和感を感じながら、もう一度夕奈に目を向ける。右手はまだ伸ばされたままで、指の先が少し震えている。何だかこのままずっと差し出されていそうな気に襲われて、しぶしぶ、俺は空いている左手を差し出した。
 小さな手が、俺の指をつかんで、ぱたんと重力に従って敷布団の上に落ちる。もちろん、俺の左手もその動きに引きずられる。流石に握り返してはやらなかったが、とりあえず夕奈はこれで満足したらしかった。
「しーがのて、つめたいねえ」
 ぽそぽそと呟き、そのまま瞳を閉じてしまった夕奈に、寝たら絶対出てく、寝たら今度こそ絶対出てく、と口の中だけで呟き返し、俺は視線を逸らした。ファイルを眺めるのもいい加減に飽きてきたので、窓の向こうの夕焼けを、時間潰しの為だけに眺めてみる。グレイや黒の割合が多い夕焼けに、明日は雨か、とぼんやり思った。赤い空に反抗するように、ファイルの中では蒼い光がゆらゆらと揺れていたが、どうせ元通りになっているのだろうから見ないでおいた。…居残り確認なんか後でも変わらない。

『……綾瀬夕奈 現想定死亡率  九―――』

 突然、指先以外は冷たいままだった左手に、何かが触れた。思考を遮られたのもあって一瞬驚いたが、ああ夕奈か、とすぐに思い当たってそのまま無視することにする。小さな硬い音がしたのは多分、腕時計にでも触ったんだろう。独特のデザインだから子供には珍しいのかもしれない。
「……っ?」
 そのまま、相変わらず窓の外を見続けていた俺に、俺の耳に、何故か小さく息を呑む音が聞こえた。……息を呑む?
「………夕――?」
「…しーが? これ…なあに?」
 そこで初めて振り返った俺の言葉を、夕奈が遮った。
 夕奈は俺の左手を、両手で握ったままじっと見つめている。何を、と夕奈の視線の先を辿り、
俺は、凍りついた。



 ――リストバンドのような太い革ベルトに、不釣合いに留められた青白く光る小さな時計盤。大きな銀の留め具に、そこから繋がる鎖の先が打ち込まれた天界の音水晶。……死神に配給される、死の時を知らせる腕時計。死神によってはその時計はそれだけの意味でしかないが、……死神によっては、それ以上の意味を持つものになる。ある意味での心の瘡蓋。普段は治っているように見えても、爪を立てれば簡単に――



「―――ッ……!」
 見るな、と確かに心が絶叫した筈なのに、俺の喉は凍りついたままだった。振り払おうとした腕が、動かなかった。
 普段は手の甲から先しか覗かない長い袖が、夕奈に好き勝手させていた間にだろう、手首の先まで上がっていた。……忘れていた、――違う、忘れようとしていたんだ。死神になって、誰にも見られる心配なんて無くなった時から。
 袖口と腕時計の隙間に覗く肌色の上に、くっきりと刻まれた赤い傷跡。……決して癒えることの無い、俺にとっての、『致命傷』。
「しーがってば、ねえ、これ、どうしたの? ……あ! もしかして、マリアにいじわるしたんでしょ! ゆうなもマリアかわいいから好きだけど、しっぽひっぱるとおこるんだよ? ……あれ? しーが、みきちゃんのおうちいったことあったっけ? マリアって、みきちゃんちのねこさんなんだけどね――」
 動けないままの俺に気づきもしない夕奈が、純粋な疑問で首を傾げている。そしてひょいと視線を上げて――目を逸らす暇も無い、俺の表情を直視してしまった。
「………しーが?」
 夕奈の瞳が瞬く。思考まで凍り付いてきた俺の顔をじっと見つめて、見つめ続けて、……唐突に、その表情が変わった。
 左手首に、ぎゅう、と小さく強い力が込められる。
「……いたい? いたいの? すごくいたいの? ねえ、いたい、これいたいよぅ…」
 今にも泣きそうな表情で、夕奈が俺から視線を外して俯いた。その行動を見つめながらも、……焦点が飛んでいるせいだろうか、それが何処か別世界のことのようにしか俺には見えなかった。……どうして、と頭の中でぼやけた声が渦を巻き始める。

(どうしてそんなことをどうしてそんなこえをどうしてそんなかおを?)
(どうして―――)

 ――それはあっと言う間に自虐的思考に膨れ上がろうとして――唐突に、行き成り、遮られた。左手首に、さわさわと何かが繰り返し触れる感覚。経験のないソレに、流石に不思議に思って瞬きをのろのろと繰り返すと、少し焦点の戻った世界で、夕奈が俺の手首に手の平を添えているのが見えた。そして、その手が俺の手首を行ったり来たりしている様子も。
 撫でられている、ということに此処でやっと気づいて、俺は少しだけ目を瞠った。誰かと触れ合うということだけでも物凄く久しぶりなのに、撫でられた、なんて、どれくらいぶりか分からない。
「…あのね、おとーさんがおしえてくれたの。こうやるとね、いたいのなくなるんだよーって」
 夕奈が、横になったまま俺の目を見て笑う。笑い返せずに固まっている俺のことなんか全くお構いなし、だ。
「……お前、………」
「なあに?」
 その何も知らない瞳に向かって、どうして、と問いかけを口にしようとする。……たった四文字だけ、それだけなのに音にすることが出来ず、結局俺は首を振って終わりにしてしまった。
 情けないような、救われたような、腹立たしいような、言葉の枠に入らない感情に、俺自身が一番途方に暮れていた。どう言葉が返ってきてもどうすれば良いのか、分からなかった。




+・◆・+



 俺はこの時、思い出さなければいけなかったんだ。
 俺は死神だということ。
 この小さな子供は遅かれ早かれ死んでしまうということ。
 こいつが死ななければ、自分も永遠に先には進めないこと。
 生きていた頃と変わらず、俺は全てに甘えているままだということ。
 あの時、思い知った筈の生と死の意味を。






Next…


08年 文芸部誌「游」 バレンタインスペシャル号掲載

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