人生には、良いことと悪いことが、半分ずつ用意されているものだ、と誰かが言っていた。世界なんて自分の見方次第でどうにでもなる、とか、幸せはなるものじゃなくて、気づくものだ、……とか。
 だとしたら、俺は相当頭が堅い馬鹿か、妄想の過ぎる悲観主義者か、どうしようもなく捻くれた奴だったってことか。
 …幸せ? 冗談じゃない。見方一つで簡単に幸せになれるんなら、毎日毎日何千人も自殺者なんか出る訳ないだろ。ヒトはすぐ、自殺は悪いことだとか、遺された者の気持ちを考えろだとか、未来にはきっと良いことがある辛いのは今だけだから頑張れだとか、簡単にキレイゴトを吐き捨てる。
 一般的に考えればそんなことは当たり前だ。それくらい、俺達だって大体の奴は分かってるんだよ。それを分かっている上で、それでも俺達は決断するんだ。それぞれ何を決断するかも、実行する手段も違うだろうが、最終的に下す判断は一つだけ。
 全ての存在に、「サヨナラ」を。

 そして、俺の決断はたった一言。
 勿論、辛いだけの人生じゃなかったし、楽しかった記憶だって人並みにある。でも、だからと言って、それが未来や今を変えてくれる訳じゃない。
 何度も足掻いて、苦しんで、それでも世界は変わらなかった。
 こんなもの、もう、どうでもいい。
 もう既に何本もの傷跡が走っている腕。今までは何となく避けていた部位。薄っすらと見える青い血管の、さらにその奥、を、目掛けて。
 いつもは横倒しにしている刃を、縦に据える。そして、

 俺は







+・◆・+





 三月二十八日 AM3:02

 左手首に我が物顔で収まっている腕時計が、ぼんやりと光って、暗闇の中で時を知らせている。その光と月光とに頼りながら、俺は手の中にある透明なファイルへと視線を向けた。
 強い夜風にばたばたとはためく紙を押さえて、ご親切に発光してくれる青白い文字の羅列を目で追いかける。声に出さずに反芻して、挟み込んである一枚の写真の中の人物を確認する。……大丈夫。間違っていない。
 さらにもう一回読み返してから、俺はふぃと視線を下に落とした。
 がらんとした広い田舎道の只中の、赤い屋根に木製の風見鶏。この家から一番近くに見える家でも、ここから数百メートルは距離がありそうだった。その間には、元は東京に住んでいた俺から見れば同じ日本とは思えない、広い広い田園風景が続いているばかりだ。そして、今回の当事者の部屋の窓には、小さなカミツレの植木鉢と蒼い熊の縫いぐるみが、二つ並んでこちらを見上げている。
 ファイルに記されたのと何一つ変わらない姿を確認して、俺は詰めていた息をようやく吐き出した。
「これで、やっと三十六人目か……」
 俺達の仕事に、ミスは許されない。うっかり対象を間違えて、懲役を何十人と追加されるのはごめんだ。……この前はうっかり別の奴の所へ行ってしまい、あと少しで本来の奴の刻に間に合わないところだった。
 苦い記憶を頭を振って胸の奥に追いやると、俺は改めて、今回の当事者の部屋の窓へと近づいた。
 名は綾瀬夕奈(あやせゆうな)。年はたったの四歳弱。これが今回の俺の担当。
「……っ…と」
 正直ほとんど意味はないのだが、なるべく音が立たないようにしながら、俺はそいつの部屋の小さなベランダに足を降ろした。
 とん、と小さな音に重なるようにして、ちり、と胸元の逆十字のペンダントが微かな金属音を立てる。……隣につけてる鍵にでもぶつかったか。もう別に、誰も俺の立てる音に気づきやしないことは解っていたが、それでも、こういうヒトだった頃の習慣や思考はなかなか抜けない。
「さて、と……。とりあえず、一応様子くらい見ておくか……。…………。……七十五か。もう大分綱渡りだな」
 独り言を呟きながら、左手で押さえていたファイルをもう一度見下ろす。ページの一番上、『綾瀬夕奈』という文字の横に記された、ゆらゆらと揺れる蒼い数字。それを確認した後、ぱたんと表紙を閉じるとファイルは空気に溶けるように掻き消えた。
 空になった手を開くと、代わりに、柄に小さな鳥篭の括られた、蒼銀の大鎌が手の中に生まれた。ずし、と確かな重さが腕にかかる。月光を受けて光るソレは、何度見てもこの役職には酷く不釣合いで。軽く視線を上げて、窓ガラスに映る俺の姿と見比べて笑ってしまう。
 縁に銀の刺繍がある以外、表情を隠す為のフードも、首筋に紋章のように絡みつくチョーカーも、長すぎるローブも、邪魔ったらしいマントも、翼まで、とにかく全身上から下まで夜のように真っ黒なのに、この鎌だけは、常に黒を圧して鈍い蒼に光っている。挙句、俺は目も髪も黒いから、まるでこっちが鎌に使役されているようにさえ感じる時もあるのだ。
 ……くだらない。
 一度自嘲して迷走していた思考にピリオドを打つと、俺は窓の鍵――正確にはその鍵の魂――を、壊さない程度に鎌の先端で突いた。かちりと音がして、いとも簡単に鍵が開く。その大きくはない窓から、俺は部屋に入ろうと、窓を開けた後カーテンに手を掛けて――
「――きゃあああぁあああッ!!」
 突然、夜の静寂を引き裂いた甲高い絶叫に、俺は窓の桟に片足を掛けたまま固まった。余るほど長いマントの裾だけが、風に揺れてはたはたと音を立てて、静寂の再来の邪魔をする。
 部屋の奥、月光に僅かに照らされている場所に、浮かび上がるようにして、ファイルの写真の中にいた『そいつ』は俺と同じように固まっていた。唯一違うのは、その瞳が俺を見つめて恐怖で真っ黒に震えていることで、俺は、その瞳が今『俺』を映しているのだと悟って愕然とした。

 死神に成り果てた、この俺を?

「……っ、あ…、うっ……ぁ…、だれ…なに……? おかーさ…おかーさんっ……おかーさんかえってきてぇえ……っ」
 よく見ると、恐怖で震えるどころかそいつは布団を握り締めてぼろぼろと泣いている。……当たり前か。夜中に窓から知らない男が入ってきたら、普通子供じゃなくたって泣く。加えて、その不法侵入者の背中に黒く捻れた蝙蝠(こうもり)の翼なんて付いてたら…。……、……そもそも、何でこいつ俺のことが見えるんだ。っていうか何でこんな時間に起きてやがるんだよ。
 普通、俺達死神は生者には見えない。現に俺だって、死神になってから今までこんなことは一度も無かった。
 ……どうする? こんな小さい奴の相手の仕方なんて、知らない。
 俺はこいつが死んで魂を手放すまで、こいつの側を離れられないのに?
「あー……、……悪かった、その…別に何もしない、から……驚かせて悪かった、そんなつもりは――」
「おとーさんっ…おかーさぁあんっ……やだ…やだぁあ…ゆうなこわいよ…ゆうなこわいよぉおっ……」
「う…だから……、何もしな…気にしないで寝て―――」
「おかあさっ……うっ…あ……うあ……うわぁあああん! おかーさん!おかーさん! おかあさんかえってきてぇ―――!!」
 とうとう火が付いたようにわぁわぁと泣き出したこいつに、俺はここが田舎で良かったと心の底から思った。都会やマンションだったら今頃大事だ。こういう時に上手いことを言えない自分に、うんざりを通り越して吐き気まで覚えてしまう。
「………はぁ…」
 俺には無理だ。
 そう結論を下して、俺はそっと体を窓から外へと戻した。泣き声はまだ途切れない。かと言って離れることも出来ないので、その位置で鎌と翼を隠すように屈みこんで、落ち着くのを待つことにした。顔が見えなかったのが余計怖かったのかもしれない、とはたと思いついて、せめてフードは外しておいた。開放された髪が風で無造作に流れて邪魔だが、仕方ない。
 中途半端に見えない位置にいると(俺だったら少なくとも)逆に怖いだろうと、カーテンの隙間からギリギリ俺の顔が見えるくらいの場所を選んで腰を降ろす。手慰みに、今回の当事者――俺に魂を運ばれることになる奴――に関してのほぼ全てが書いてある例のファイルを呼び出すと、俺は甲高い泣き声に背を向けてページを開いた。
 綾瀬夕奈。年は四つ。元々病弱。両親は共働き、編集者と看護士だそうだ。そして今日は両親とも早く帰る予定だった――が、急にどちらも一日帰れなくなったらしい。……今現在、お互いに家には相手がいると思っているらしい。……どんな親だよ。こんな家庭事情が自動更新で網羅される死神のファイルにも感嘆を覚えるが、この家の家族もかなりのものだ。
「ひっく…っく……けほっ…おかあさ……っ…ママぁあ……」
 ふっと気が付くと、さっきまでの大声が嘘のように止んでいた。その代わりのように、か細いすすり泣きと咳が聞こえる。だからどうと言う訳ではないのだが、号泣されるよりこちらの方が始末に困った。さっさと寝てくれはしないかと、途方にくれてまたファイルに目を落とす。文字の羅列を目で辿るが、正直内容は頭に入ってこない。……担当者の情報より子供のあやし方を書いておいて欲しかった。
「……けほっ、けほ……う…ひっく」
「……頼むからもういい加減泣き止めよ」
「……っ」
 独り言のつもりで呟いた言葉に、めそめそと続いていたすすり泣きが引きつれたように止まった。……しまった、とさっきまでの号泣が再来することを覚悟する。自分の言葉を同胞以外に気に留めることがない状況に、いつの間にか慣れきってしまっていたらしい。
「…悪い、今のは―――」
「………い…」
「……あ?」
「……それ…こわい……」
 小さな声に、何のことを言っているのかと恐る恐る俺は部屋の中を振り返った。目が合ったらまた泣き出されるんじゃないかと思ったが、そいつは目を真っ赤にしてしゃくりあげながらも、じっと何かを指差している。
 指の先を辿って、すぐに合点した。そいつからは微かにしか見えないはずの位置に置いてある死神の鎌。…子供でも本能的に怖いんだろう。
 この鎌が無いと死神は抜け出た魂を保護出来ない。一瞬ためらったが、このまま延々と泣き声に晒されたらこっちが参ってしまう。死を前にしたヒトの嘆きやら怒りやら泣き声やらは今まで何度も聞いてきたからどうということは無いが、『俺』が原因での泣き声は、正直、聞くのが辛い。
 ……まあ、あんなに元気に大泣きしてたんだから、今すぐに死ぬという訳ではないのだろう。
 鎌の上に手をかざして、横に凪ぐ。すぐに、大鎌は俺の手に吸い込まれるように消えていった。余韻を払うように振った手を、そいつの方へ差し出す。
「…これで良いのか」
「………」
 闇に紛れながら、こくん、と頷くのが見えた。
 とりあえず泣き止んだなら寝てくれるだろうと安心して、俺は再び視線を逸らした。…が、それをそいつの声に遮られた。
「………ママは?」
「……は?」
「……パパも……。……かえってこない…ゆうな待ってるのに…かえってこない……おかーさん…なんで…っ…?」
「――……あー、ああ…えー…お前の父さんと母さん…は、あれだ、仕事が立て込んで今日は泊まりらしい。お互いに連絡し損なって、今家にはどっちかがちゃんといるって勝手に思い込んでる」
 また声を震わせ出したそいつに、俺はとっさに先ほど知り得た情報を告げてしまった。言ってから、こんな現実に子供が納得するか、と気づいたが後の祭りだ。
「……おしごと?」
 内心この先に起こるだろう展開を想像して鬱になっていた俺を尻目に、そいつは泣くでもなく怒るでもなく、きょとんと俺の言葉を聞いていた。何度か口の中でその単語を反芻しているらしいのが見える。やっぱり泣き出すんじゃないかと冷や汗をかいていると、ふいに、その表情が変わった。不安そうで仕方なかった顔が、安堵したように緩んでいく。
「おい―――」
「かえってくる?」
「……は?」
「あしたは、かえってくる?」
 確認するような問い。頷こうとして、ちょっと躊躇ってから、ちら、と例のファイルをカンニングした。未来は書いていないことをその時になってようやく思い出して、音に出さずに舌打ちをする。何か今日は調子が狂い過ぎてやしないか、俺。いくら久しぶりの生者との対話だからと言って、俺だって元々は人間だったじゃないか。
「……ああ」
 とにかく、ここでもし否定なんてしたら大惨劇だ。思い切り投げやりな返事だったにも関わらず、そいつの顔がぱっと笑顔に変わった。……単純、と声に出さないように呟いて、俺は今度こそ視線を外へと戻した。後は左手首の腕時計が担当者の死の瞬間を告げるのを待つだけだが、本当にこいつ、死ぬのか? …いや、きっと多分、今日じゃないんだろう。
 俺達は、近い未来に死の運命が与えられた奴のところに派遣される。不慮の事故や病気、事件でさえ、生まれながらの運命として無差別に誰だろうと突然突きつけられる。唯、俺達はその突きつけられる人物を前以って知っているというだけだ。
 但し、その死の運命に至るまでは沢山の分岐点があって、気まぐれな言動や運でさえその道筋を支配する。運がいい奴は死の運命に辿り着く直通通路の回避を繰り返し、散々遠回りした後に死へ辿り着く。運が悪い奴はそれこそ即効ルートでその死の運命に転がり込んだりもする訳で。
 そしてこいつもまた、近い未来に死ぬことになっている、そうだ。現時点での想定死亡率はなんと七十五%――秒読みも良い所だと思うんだが、まさか冥府の方が間違えたんじゃないだろうな。どう見ても、せいぜい軽い風邪を引いているくらいにしか見えない。そもそも――
「ねえ、おにいちゃん」
 行き成り思考を遮られ、俺は反射的に声の方を振り返った。
 とっくに眠っただろうと思っていたのに、そいつはまだ普通に起き上がって俺の方をじっと見つめていた。俺と同じ黒い瞳に、先ほどまでの強烈な警戒の色はあまり見られない。…子供は本当に単純だな、とやや呆れた目でそいつを見返すと、そいつは首を傾げて口を開いた。
「おにいちゃんは、なあに?」
 今更直球で向けられた質問に、俺は同じように開こうとしていた口をとめた。…子供は空気を読まないから、嫌いだ。こんな子供に『死神』という単語が通じるとも思えない。……しかしだったら何と言えと?
「……死神、だよ」
 投げやりに返すと、案の定、そいつはぽかんとしたままこちらを見つめてきた。かと言って取り繕う気もないので目を逸らすと、こくん、と視界の端で黒髪が揺れるのが見えた。…首を傾げたんだな、とその動きで理解する。
「……それ、なあに?」
「……んー…、あー……、……死んだヒトが、死んだ後に迷子になってお化けになっちまわないようにする、ヒト」
 最大限努力して解り易く言ってみたつもりなのだが、通じただろうか。
 横目で伺ってみると、……くそ、表情変わってない。もう勝手に悩んでろ、と気に掛けることを放棄すると俺は溜息をついた。本当に、なんでこいつは死神の姿が見えたりするんだ。でもって何でそんな面倒な奴が俺の担当になるんだ。こんな重大なことくらい把握しとけ、でもってそれなりのベテランを寄越せよ冥府! 永久死神とか何人かはいるだろ普通!
「ねえ、しー…が、…むー……。…しぃ…がみ、……じゃあ、ゆうなはしんじゃったの?」
 また悶々とした暴走思考にふけっていた俺は、不意に向けられた言葉に驚いて顔を上げた。相変わらず同じ表情で、そいつはまだ俺の方をじっと見つめている。発音しにくかったのか、たどたどしい口調で、それでも、死神、と普通にその単語で俺に呼びかけて、そんな核心突いた質問を。
「…いや、…まだ普通に生きてるな」
「じゃあ、なんでゆうなのとこ、いるの?」
「………」
 今度こそ完全に道を塞がれて、俺は途方に暮れた。今まで誰にも気づかれなかったのだから、誰にも死の運命を告げる羽目になることなんてなかった。その上こいつはまだほんの子供だ。
 真夜中は静か過ぎて、遠くに響く虫の声は所詮唯のBGM。生きていた頃本当に苦手だった気まずい重い沈黙に久しぶりに晒されて、子供相手に俺は目を彷徨わせる。
 本当に無意味な、やけに広い夜空だとか、半端な形の月だとか、人っ子一人見えない畦道だとか、そんな意味のないものばかりを視界に映して、それでも俺の中に誤魔化せるような言葉は浮かんでこなかった。
「ねえ、しーがみ、なんで?」
 一度死んでも、俺の馬鹿なくらいの考え症は治らなかった。一言、お前はもうすぐ死ぬんだよ、って相手の心情もいちいち考えずに告げられたらどんなに楽なことか、自分の人格を呪いたくなる。
 今の俺は死神だ。昔と違って逃げられない。こいつが死ぬまでは延々ここにいて、延々この質問を食らわなきゃいけない、訳で。
「……もうすぐ、死ぬから」
 頼むからもう号泣絶叫は勘弁してくれよ、と叶いそうもないような願いをかけながら俺はそれを告げた。もうすぐ、自分が死ぬ、なんて言われたら誰だってパニックになるのが当たり前だ。いざとなったら屋根の上に逃げよう、と卑怯な考えをしながら俺は目を閉じて――いつまで経っても泣き声がぶつかってこないことに、目を開けて、振り返る。
 全く同じ、表情で。
 きょとんと首を傾げたまま、まだそいつは俺を見ていた。
「ゆうな、しんじゃうの? みっちゃんやあきちゃんと、もうあそべないの? ゆうな、あした、もみじこうえんであそぼうってやくそくしたんだよ。あとね、あったかくなったらピクニックいこう、っておとうさんとゆびきりしたんだよ」
 誰が、
「ゆうな、やだよ、しぬの」
 誰が、こんな純粋な子供なんかに、現実を告げられただろう?
「ねえ、しぬって、ゆうな、どうなるの? ちょうちょみたいになるの?」
 部屋の隅に置かれた虫篭が目に入る。今まで何匹もの虫の一生をこいつと共に見送ってきたのだろう。こいつは、命の終わりとしての死は知っている。でも、本当の意味では何も知らないんだ。
「……悪い、もうすぐ、じゃなかった。まだ先だ、しばらくは大丈夫、死なない。だから、今の内に思いっきり遊んどけ、まだ、死なないから」
 無意識の内に勝手に口が紡いだ言葉に、俺が一番驚いた。
 瞬きを繰り返していた瞳が、きょとん、ともう一度大きく瞬く。意味が解らない、と傾げていた首が元に戻って、そっか、よかったあ、と何度も同じ独り言を繰り返している。
 その時俺がもっとこいつを見ていたら、その表情は戸惑っていたんじゃなくて、正体さえ見えない不安を突きつけられて呆然としていた表情だと分かることが出来たのだろうが、その時の俺の瞳にそれはまだ映っていなかった。
 ぎし、と小さくベッドが軋む音が響く。重なるように咳の音。
 左腕に視線を落とすと、もう四時過ぎだった。子供の起きていられる時間じゃない。
「…さっさと寝ちまえ……」
 調子を狂わせっぱなしの自分に苛々しながら、呟く。うん、と返事が返ってきて、それに驚いて顔を上げる自分にさらに苛々が募った。…何やってるんだ俺、本当に。
「ねえ、しぃがみ、なんてなまえ? なんてよべばいい? わたしね、ゆうなっていうの」
 眠そうな声が俺に問いかける。もういい加減にいちいち考えるのが嫌になってきて、昔のように心に蓋をしながら適当に返した。
「死神に、名前なんてねえんだよ」
「じゃあ、しーがでいいよね」
「……なっ?」
 俺の反応を完全無視して、そいつは勝手に支離滅裂な結論を下して、笑った。完全に混乱してきた俺に、いい加減寝ても可笑しくない、ほやほやとした声音でさらに問いかけてくる。
「しーが、あしたもいるの? もうかえっちゃうの?」
 このまま無視してたらそのまま惰性で寝てくれないだろうか、と情け無いことを考えながら俺は額を抑えて溜息をついた。それを聞いて、何故かそいつの表情が柔らかくなる。
「そっかあ。じゃあね、しーが、またあしたね」
 それだけ言って、寝た。
 ……今のどこを肯定と受け取ったんだこいつ。もう、訳が分からない。
 死神の俺に「また明日」? やっぱり死神が何か分かってないとしか思えない。そもそもまず死神と普通に会話交わす心が理解出来ない。
 物凄く疲れた気分に取り付かれながら、俺はのろのろと重い腰を上げた。
 疲れを吐き出すように、残っていた息を全て吐き出し、何気なしに手に持ったままだったファイルに目を向ける。そのまま、俺はまた固まった。

『綾瀬夕奈 現想定死亡率 十一パーセント』

「……何だよ、これ」
 最初見た時は確実に七十五だった蒼い数字は、素知らぬ顔をしてゆらゆらと揺らめいている。…何度も見たんだ、絶対に記憶違いじゃない。……何故だ? 俺との会話が死の運命を遠ざけたとでも?
 コンコンと不安げに咳を繰り返していた姿を思い出す。……もしかして、親の不在が不安で外に出て症状悪化で病死とか交通事故死とか、そういうシナリオだったのだろうか。偶然俺の姿が見えて偶然俺が両親の所在を告げて、それで運命が変わったと、でも?
「…………」
 自分の思考さえ意味が分からなくなって、俺は強制的に考えることを打ち切った。今の俺は、死神だ。人間じゃないし、人間に同情してたら俺達はやっていられない。意味不明な偶然が重なった、それだけのことだ。
 こいつの近い未来に待ち構えているのだろう死の運命は変わっちゃいない。運よく少し遠ざかった、それだけのこと。俺の仕事も変わらない。こいつが死んだ時、その魂が迷わないようにあの世へ誘うこと。たまたま俺の姿が見えるからって、別に何も問題じゃない。
「くだらない」
 言い聞かせるように目を閉じて、俺は開きっぱなしになっていた窓を閉めた。鎌を呼び出して鍵を元に戻し、何となく、すぐ手の中へとしまう。
 東の空が、もう明るい。
 いつまでも部屋の前にいるのも憚られて、俺は翼を広げてそっと屋根の上に上がった。腰を降ろして息をつく。……今日だけで何回溜息付いたんだ、とげっそりしながら再び溜息。やって、いられない。
 いつまで、ここにいることになるのだろうか。苦難の待ち構えていそうな未来を想像して、俺はもう一つ重い溜息を風に散らした。
 こんなことなら、
「自殺なんて、するんじゃなかった」
 手の中のファイルの数値は相変わらず十一パーセント。その数字が増えて欲しいのか減って欲しいのかも分からないまま、俺は瞳を閉じた。
 雀やら色々の小鳥の声に紛れて、遠くから微かに聞こえる車の音が最後まで耳に残っていた。

三月二十八日 AM 4:57
綾瀬夕奈 現想定死亡率 11.7%





+・◆・+





 死神に支給されるファイルには、一つだけ、載っていないことがある。
 それは、その死神の担当者の死因、及び死亡時刻。もし万が一、死神が担当者に同情してしまったとしても、運命が狂ったりしない為に。つまり死神自身でさえ、担当者の死の運命を完全に変えられない為に。それは本当に直前まで、俺達にも知らされない。その者がどう足掻こうと死から逃げられないと確定した時、死亡率が百パーセントになった瞬間、俺達の腕時計がそれを強制的に教えてくれる、ことは今までの経験で知っていた。
 たとえば病室、年老いた婆さんの枕元で泣き濡れる家族のすぐ側で、アラームに合わせるように、心電計から心臓停止を告げる悲鳴が響いた。
 たとえば大通り、一見日常と同じ風景の中、俺のすぐ側で歩いていたサラリーマン。アラームと同時に、青信号にトラックが突っ込んできた。
 たとえば燃え盛る家の中、アラームの中震えていた中学生。炎が部屋の逃げ道を全て塞いだ時からアラームは鳴り続けて、消防車のサイレンさえ掻き消すようで、俺が、消防士さえ救助に来ればもしかして助かるんじゃないか、と思っていた矢先に、家は倒壊した。救助に挑んでいた消防士担当の同胞とそこでは擦れ違った。指名されて来てみたら、最初っから死亡率が九十超えてたんだよこのヒト、まだ私こっちに来て一時間経ってないんだけど、と言ってその死神は笑って、いた。消防士達の大声と、その中学生の家族の泣き叫ぶ声が、今でも何故か耳にしがみついている。

 …何処の死神が、担当者に同情するって言うんだよ。

 死は絶対だと知っている俺達は、今日もそいつの側にいる。近い内に絶対に訪れるそいつの死の瞬間を、逃げ出すことも許されず、そいつの代わりに待ちながら。刻が来てそいつの魂を導いたら、また次の奴の所へと向かう。死の瞬間を見届ける。それぞれ定められた人数分の魂を誘うまで、大嫌いな自分の人格を捨てることも許されないまま、
 いつか心を手放し、輪廻に復帰することを許される、日まで。

 それが、俺達、自殺という罪を犯した者の、罰だった。







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(07年 文芸部誌「游」 クリスマススペシャル号掲載)


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