何にもない空っぽな住宅街の、何にもない狭い道の只中で、女子大生の人だかりと出くわした。暑い昼下がりだった。川を流れていく途中で引っかかってしまった葉っぱのように足を止めている彼女たちの後ろから、ひょいと覗きこむ。なんてことはなかった。猫だ。茶虎だ。金色の目を瞬きすることもなく見開いて、じぃっと人間たちを見つめている。頭をぐりぐりと好き勝手に撫でられるままに。猫は、はっきりと、高い声で、にやあ、にやあ、と鳴いた。
「可愛いねえ」
 そんな言葉を残して、彼女たちが行ってしまってから、そろそろと猫に近づいた。一人で猫と対峙する。茶虎は、彼女たちに対するのと全く同じように、金色の目で、瞬きもせずにやああ、と鳴いた。突っ立ったまま何もしないでいると、自分から身体を擦り寄せてきた。首にぱっくりと白く、首輪の痕が残っていた。誰かの所有物である印はもう無いのに、これでは自分で首輪をこしらえているようなものだった。
「通りかかる誰んでも媚売ってらあ」
 隣にいた初老の男が、呆れたように笑いながら言った。
「娼婦のようにですか」
「んん、まあ、近いけどちょっと違うかね」
「愛してくださいと」
「構ってくださいじゃねえかな」
 その辺の娘っ子にそっくりだなぁ。
 あまりに額をぐりぐりと押しつけてくるので、根負けして、屈みこむ。ぺったりとべたつく毛並みを何度か撫でてやると、猫は(幸せそうに)鳴いた。立ち去ろうとすると、行く手を阻むように身体をくねらせる。行かないで、行かないで、ここにいて。
「じゃあね」
 手を振っても、しばらくついてきた。そのうち諦めて、ふいっとガレージへ帰っていく。また別の誰かに身体を擦り寄せる為に。
「いや、多分もっと自由に」
 飽きただけだろう。
 なるほど。

 てくてくと歩いていく。静かだった。アスファルトの下を流れる下水の唸りが、マンホールの隙間から湧き上がってくるくらい、静寂が都会の住宅地を支配していた。気温だけは夏のようで、蝉だけが足りなかった。
 影を多く抱きこんだ公園の傍を歩く。暗闇に白い煙が浮かび上がり、たなびき、筋を引いている。逞しく葉を茂らせ、枝を張り伸ばした都会の大樹の下、ギターを抱えた青年が二人、見事なヤンキー座りで煙草を吹かしていた。この暑い日に、上から下まで黒尽くめだ。通り過ぎざまに視線を向ける。彼らはぼうっと中空を見つめている。
「耳を澄ませているんだ」
「何に?」
 言い訳をするような少年の声に、首を傾げる。
「聞こえないじゃないか」
「それは失礼」
 道いっぱいを塞いで、錆びだらけのトラックががたぴしやってきた。ガラス瓶をぶちまけたような音に追い立てられ、先を急ぐ。
 春の流行最先端、模範の装い。レースのブラウスに、刺繍入りのフリルスカートから白い足を覗かせた可愛らしい女の子が、恐ろしいほどの無表情で十字路に突っ立っている。擦れ違う。
 ギャラリーの看板を掲げた、ガラス張りのデザイナーズマンション的住宅の狭い庭で、腰に手を当てたナイスミドルが水やりをしている。銀色のシャワーだ。手つき指先の一挙一動まで、エンターテイナーだ。擦れ違う。
 擦れ違い擦れ違い歩き続けていた。空中浮遊していた思考が、ふいに何かに躓いて、立ち止まる。何につっかかったのかと辺りを見回し、
狭い花壇と目が合った。背凭れの消えたオフィスチェアが野晒しで鎮座していた。大変だ。椅子の死体だ。一瞬、動揺する。それがいけなかった。
「こんにちは」
 青紫のクッションの上に正坐した彼が言う。
「こんにちは」
 自然と、不自然に、視線は滑る。逞しく日に焼けて、着古したシャツの匂いから逃げるように。駆け出すと、無表情な声が追いかけてきた。
「やれやれ、やっぱり君にも見えないか」
 ぞっとして振り向いた時にはもう、彼はどこにもいなかった。
 私は心から安堵して、車道へ向かった。



 これは嘘だ。
 本当はそんなことは思わなかったのだ。
 誰もこんなことは言わなかったのだ。
 後から見返し振り返り、更新するのだ。見栄えよく体裁よく、物語の形へと。つくりものへ。記憶をつくりものに摩り替えるのだ。現実に言葉で勝負を挑めば、記憶は物語に屈伏する。そして物語は決して現実に勝てない。
 緑と青と、灰色があれば視界のほぼ全てを描写することが出来た。いいや、一色足らない。赤だ。そう、赤だ、揺れる緑の中でぼっぼっと燃えていた赤だ。ゼラニウム。鉄に蔓延る錆び、機械の赤、あんなものとは比べ物にならない命の赤だ。女の炸裂した月経の血のようななんて月並みすぎる表現で描写してはいけないくらい、あんな生臭いものではなく、咲き誇る赤を、
 私はただ見つめただけで通り過ぎたのではなかったか。
 ただそこにあるものを、言葉で歪めていく。ただ美しいとだけ感じたものを、感情を、肉体感覚を、いいや私はこう感じていたのだと、言葉で上書きしていく。詩的な表現で、自然主義で、浪漫主義的な表現虚飾を多用して現実を造り替えていく。
 手に余る言葉は思考の隙間から滑り落ち、手垢のついたお気に入りの表現で現実を描写していく人間の行為を文字と言葉でさらに確かなものにしていくのだ。あの猫は自由を求めていたか? あの首輪とべたついた毛皮に誰が物語を望んだ訳でもない。私さえも望んでいない。言葉は強欲だった。覚束ない剥き出しの言葉は口ごもる人の唇から剥がれ損ねて逆に本人を引き摺り回すのだ。
 すれ違った全ての人間の持っているであろう物語を、盲目に呑みこみ、少なすぎる語彙で造り上げた別の物語の眼鏡で見つめるのだ。演出を解釈を振りかざし、現実を組み替えた意図を絞りだそうと。あの人はああいう人だ。あの子は優しい。あの子は意地悪だ悪い奴だ。嫌な奴だ。嫌な物語だ。違う違う、あの子は本当は優しい子なのだ!
「貴方は嘘吐きだ」







 ありのままの感情と視界現実を消去して、
 馬鹿げた投影物語を保存しますか?

 「はい」 いいえ

 上書き更新完了
 シャットダウンしますか?

 はい 「いいえ」


 この物語は全て嘘だ。
 けれど、同時に、確実に、誰かにとっての現実なんだ。
 彼らは本当にそこにいたんだ。それだけは嘘じゃないんだ。
 本当なんだ。




 シャットダウンしますか?


 は


inserted by FC2 system