井の底の歌声


井戸の底から見た空の色を知っていますか?

 

……暗い暗い井戸の底 まぁるく見える遠い空
そこに彼女は、住んでいました
水音の響くばかりの寂しい世界
その狭い狭い暗闇が、彼女にとっての全てでした

井の中の蛙
おろかもの の 例え話
彼女は世界の全てを知っていました、知っているつもりでした
あまりにも、あまりにも、狭い世界だったんですもの

まっくらで、まっくらで。
狭くて、空どころか、朝露にさえ手は届かず。
歌をうたっても、ただ、木霊するばかり。

彼女は全てを知って、いました。
自分は井戸の底の蛙に過ぎないということも。
全てを知ったつもりになっているだけということも。

けろ けろ けろろ
遠い思い出 六月の空
夏の日差しと戯れて
けろ けろ ららら
歌ってスキップ くるりと飛んで

蛙は井戸に落っこちた。

キン


         キン

  コロン

      キン


           コロ




   ピトン……




 
 
私は、一人ぼっち。
私は、いらない。
私は、独りぼっち。
私は、帰れない。
(誰も私の元へは来ない)
(私を必要な人などいない)
(私にはこれがお似合い)
(きっと、それでいいのよ)
 
 
彼女は、おろかものなのかもしれません
だけど、それは。
遠くに切り取られただけの、眩しすぎる夏の青と。
冷たい冷たい水の中で。

それを断言出来るでしょうか?


ららら ららら
蛙は一人でうたっています。
ひらひら舞い降りた一枚の花弁に、心の底からのキスをしながら。
ねえ、鳴いているの、泣いているの?

蛙は知っています 知っているつもりです
世界の広さも 青い空にだって苦しみは必ずあることも
だけど蛙はないています
だって忘れてしまったんですもの
冷たい冷たい水の中で。




切り取られた空の向こう
ハローハロー
……聞こえますか?
小さな小さな青の向こう
そちらはどんな お天気ですか

私は鳥になりたいけれど
きっと 本当の空は広すぎて
こんな冷たい井戸の底のことなど







世界に埋もれてしまうのでしょうね。






ハローハロー
聞こえていますか?
お願い 貴方ももっと大きな声で歌って
我儘だってことも知っているわ
でも ねえ
こんな深い穴の中じゃあ
聞こえないの
聞こえないよ
空さえ埋もれて消えてしまう




“ 忘 れ た く な い の に 




けろけろ けろけろ
サヨナラ ららら。

冷たい 冷たい
深い 深い
忘れ去られた井戸の底
最後の歌も ぷくぷく沈む。


――今はもう 何も 聞こえない。
けろ

   けろ
        らら
             ら

   おねがい


       たすけて――







2008年 文藝部誌「游」 バレンタインスペシャル号掲載
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