――残されたのは、言葉。

――忘れられたのは、物語。





其処に在る想いと、

伝えたかった唄と。





詠ったのは、彼女。


そして奏でるのは、私。







ひとつめ――『雲の見る夢』

 蒼い空と白い雲。
 遠い水色の中に浮かぶ白。
 暖かい陽光で、きらりきらりと眩しいくらいに輝く綿雲を見上げて、彼女は小さな欠伸をひとつ、飛ばした。遠くに見える山並みが、空の蒼に溶けながら、天球の淵を彩っている。蒼い世界の下、彼女の座る広い広い草原(くさはら)には、空と同じように、幾つもの白が自由気ままに佇んでいた。

 ……なるほど確かに、自分たちに「雲のような」と形容詞をつけた人間は良い目をしている。

 少し煙った灰青と、生まれたての若葉の緑。見上げれば青い空が、見下ろせば緑の空が、春の空気に包まれて世界に浮かぶ。
 ――ぽてん。
 柔らかい絨毯のような地面に顎をつけて、彼女は目蓋を降ろした。
 春を迎えて、浮かれている小鳥達の可愛らしい小さな歌声が聞こえる。
 暖かく優しくなってきた風も、牧草を揺らして一緒に歌っている。
 森の方から聞こえてくるざわざわは、木の葉が元気になってきた証拠だろう。
 雨のように降ってくる陽の光は、もう微かに暑ささえ混じり、冬が北の方へとすっかり去っていってしまったことを教えてくれる。
 ――そう、春なのだ。
「こんにちは、メリー」
 さくさく、さくさく、音を捉えた耳が、小さくぴくんと動く。
 低く掠れた声と、のんびりとした足音。こんにちは、グランパ。顔を上げて、めぇ、と挨拶をして笑うと、ぽふぽふと背中を叩いてもらえた。
「もう、すっかり春になったわなぁ」
 しわしわの顔をもっとしわしわにして、グランパが嬉しそうに言った。いつものように、小脇に抱えた小さな椅子を降ろして、小さな水筒を取り出す。今日のアフタヌーンティーはなぁに、グランパ?
「今日はブルーマロウティー。レモンでピンクに染めるのも良いと思ったんだが、此処で空と同じ色の茶を飲むのも良いかと思って、なぁ」
 水筒のカップを覗き込んでくる彼女を好きにさせておいて、グランパは春の空のように笑う。
 マシュマロを浮かべたらもっと空みたいなのに、と言う彼女に、今度やってみようか、と返して。グランパは午後のお茶を一口。
 甘い香りが、ふわりと辺りに漂う。ああ、春の匂いだ。ふわふわ、心地よさに包まれ、彼女はグランパの傍らに腰を降ろした。そのまままた、目蓋を降ろそうとして、
「メリー。今日は遊びに行かないのか?」
 ああ、そうだった。
 春眠、暁を覚えず、とは良く言ったもので、まどろみの中に戻ろうとしていた彼女は慌てて立ち上がった。こんな気持ちの良い日に、眠ってばかりなんてもったいない。
 いってきます、グランパ。
 笑顔で鳴きながら、とことことこ、と彼女は走り出す。とことことこと、とっとっとっと、少しずつ早く、のんびりと。
 とぉんっ。
 草原の柵の一歩手前で、彼女の脚が楽しそうにジャンプする。そして、最高のタイミングで、南西の風が空に向かって舞い上がり、
「いってらっしゃい、メリー」
 青い空の、他の雲よりもずっと低い位置に、ぽつりと小さな白い羊雲。
ついさっきまで緑の空にあったそれは、風と戯れるようにしてぐんぐんとことこと青い空の高い所へ走っていった。

 しゃらしゃら、しゃりしゃり。蹄に当たっては砕けていく雲の欠片が、風に乗って一緒に舞い上がる。時には妖精のようにも見えるそれは、氷の粒独特の高い澄んだ音楽まで聞かせてくれる。なんて素晴らしい!
 ――こんにちは、スノーフェザー。こんにちは、クラウドキャッスル。
 笑いかけると、さぁっと形を変えていく彼らは、風に流されてあっという間に何処かへ消えていった。
 そんな一瞬の人生って、寂しくないのかしら?
 いつか彼女がそう尋ねた時、流され消えていきながら彼らは一斉に笑って言った。
 いいや、僕らは最高にしあわせだよ! こんな世界一美しい蒼に抱かれて一生を送ることが出来るんだもの!
 だから僕らは輝いて黒ずんで生まれて消えて流れていくんだ、と。

 雲の滝を抜けて、天井を突き抜けると、そこはもう光輝く雲の海。
 息継ぎをするように彼女が顔を出すと、其処には真っ白と真っ青が広がっていた。
 暖かな毛に覆われていない顔が少し寒いけれど、此処の景色にそんなことは頭の中から吹き飛ばされてしまう。
 延々と広がる真っ白い雲は、世界のどんな布団よりも柔らかいし、見上げた青空は世界で一番真っ青で澄んでいて果てしない。
 人間は凄い、と思うことが彼女にはもう一つ。
 飛行機という鉄の塊がこの場所を知る前から、人間は天国を知っていたのだから。
 ぽふん、と雲の上に顎をつけて、彼女は笑った。
 雲の海、それとも草原って言った方が良いのかな。今千切れて飛んで行ったのはきっとモンシロチョウ。少し上の大きな千切れ雲はきっと……。
 ――ただ違うのは、歌声だけ。
 姿の見えない、透明な風の歌声が朗々と響く草原で、羊雲が夢を見る。

 この草原が真っ赤に紅葉する頃になったら、帰るね、グランパ。
 緑の空の中で、貴方も良い夢を。――おやすみなさい。






「手を伸ばすことも出来ないから」







ふたつめ――『夢幻鉄道』

 目が覚めたら、知らない場所に居た。
 窓の外はもう真っ暗で、今自分が何処に居るのか探すことも出来ない。
 ……寝過ごした。
 がたがたがた、ごとごと。何かの軋む音。何かの唸る音。もう終点が近いのか、誰も乗っていないおんぼろバスの中で、侑珠(ありす)は溜息を付いた。
 小さな懐中時計を開くと、降りるはずの時間を二十分も過ぎている。いつもの停留所からいくつ先まで来ているんだろう。
 ……困った。最近乗り始めたばかりのこのバスは、一時間に一本しか走らない。終点の地名は何処のことなのかも分からない。いつも、家の近くの停留所で――なんて言ってもそこから家までは歩いて二十分――降りていたから、そこから先はどうなっているのかも検討が付かない。前の街なら、こんなこと絶対無かっただろうに。
「…次の停留所、どこかな……」
 もう一度、真っ暗な窓の外へ視線を向ける。せめて人気のあるところだったら。何も無い真っ暗な停留所で一人ぼっち、一時間立ちっ放しなんて絶対嫌だ。想像して、少し背筋が寒くなった。
 次にバスが止まった時にでも、運転手に聞いてみるしかなさそうだ。
 
 がたがたがたがた。舗装の悪い道路の上で、バスが悲鳴を上げる。木目貼りの床の上を、誰かが置き去りにしていった空き缶が転がっていった。
 侑珠の手の中の懐中時計は、さっき開いた時からもう四分の一、小さな円の中を回っている。まだバスは止まる気配が無い。停留所に止まる気配が無い。アナウンスも、何もない。
 目覚めてからずっと、バスの声以外、何も聞こえなかった。いつもならMDを聴いて静寂も騒音も紛らわすのだが、アナウンスを聞き逃したらそれこそ大変なので、怖くてイヤホンを手に取れない。
 こうなったら次の赤信号にでも特攻するしかない、と侑珠は覚悟を決めた。それくらいなら運転の邪魔にもならないだろう。そろそろこっちが恐怖と緊張に耐えられない。静寂は、都会に慣れ過ぎた自分には、暗闇と同じくらい怖い。
 ……どこまで、連れていかれるんだろう?

 ――ピピッ ピピッ――――

 秒針を睨むこと百八十秒、ふいに、バスの速度が落ちた。停止を告げる、古びた電子音。顔を上げると、フロントガラスの先に小さな灯りが見えてきた。少なくとも人の気配。安堵の溜息をついて、侑珠は黒い学生鞄を床から拾い上げた。終点だろうと違おうと、とりあえずこれでこの先どうすれば良いのかは分かるはず。
 完全に止まるのも待たずに、侑珠は立ち上がった。停車の瞬間、かなり揺れることは最近の経験で分かっていたので、一応吊革を掴んでおくことは忘れない。
 そして、バスの長い溜息と共に扉が開く。

「…………あ、れ?」
 バスの一番後ろから、運転席まで歩くこと、おおよそ十秒以下。その間、目を離すこと、おおよそ零秒。それなのに、運転席は空っぽだった。さっきまでこのバスは動いていたはずなのに。
 慌てて侑珠が辺りを見回すと、扉の先、駅らしき建物に向かって歩く人影が見えた。頭には、運転手特有のあの帽子。――あの人だ。
 なんで、という問いかけはとりあえず放っておいて、慌てて後を追いかける。煉瓦作りの駅の、誰もいない改札を抜ける。丸いドームのような天井と誰もいない待合室。薄暗い通路を小走りに抜けると、屋根の無い古びたプラットホームが見えてきた。

 ――そして気が付くと、侑珠はその電車の中に座っていた。


「やぁ、こんばんは! 君は誰? 何処から来たの? 何処まで行くの?」
 真向かいに座る、タキシードを着た二匹の兎――の、白い方――が、楽しそうに笑った。







「全ての理(ことわり)を掻き消した夢を描(えが)き」







みっつめ――『流れ星のうた』

「ねえ、晶(あきら)君。なんで流れ星に願いごとすると叶う、なんて言うの?」
 今日は年に一度の、あの星座の流星群の日。冷たい地面の上にシートを敷いて見上げる広い広い空には、さっきから、ぽつりぽつりとお祭りの始まりを告げる笛のように小さな星が流れています。厚いコートを着込んだ晶のお父さんが言うには、あと一時間か二時間したら、この空はもっと沢山の流れ星を見せてくれるのだそうでした。
 本当は一秒もだって目を離したくなかったのですが、流れ星よりもその問いかけは不思議だったので、晶は、宇宙に向けていた目を、そっと隣に寝転ぶ理紗(りさ)に向けました。
「なんでって……理紗こそ、なんでそんなこと聞くの?」
「んー……なんとなく。だって、流れ星って、唯のチリ、なんでしょう?ね、おじさん」
 そういえば確かに、不思議な話です。
 空を見つめたまま、は話の先を晶の父さんへと向けました。二人の少し後ろに座っていた晶の父さんは、その質問に低い声で楽しそうに笑います。
「そうだなぁ、――じゃ、二人は、どうしてだと想う?」
 絵本を読み聞かせる時のように、茶目っ気たっぷりに晶の父さんが言いました。
 それを聞いているのに、と晶が文句を言おうとした時、すぅと空に一筋の大きな流れ星が流れました。小さな歓声が三人分、上がります。
「あれがチリなんて、私やっぱり信じられない。あんなに綺麗なのに」
「……すごい、流れ星の痕が空に残ってる……」
 瞬き三回分はあったでしょうか。うっとりと空に手を伸ばしてみたりしている理紗は、さっきまでの疑問なんて何処かへ流れて行ってしまったようです。だけど、晶はそうも行きませんでした。
「ねえお父さん、知ってるなら教えてよ。なんで流れ星に願いごとをすると叶うなんて言うのか」
「ん? なんだ、まだ二人の答えを聞いてないぞ」
 ああそういえば。晶は口を閉ざして、もう一度宇宙を見上げました。流れ星について知っているのは、あの光は宇宙のチリでしかなくて、地球にぶつかる前に燃え尽きて光って消えていくということくらいです。じゃあ、どうして?
「わかんない! 私降参! ねえ、教えて、おじさん!」
「降参は認めませーん。ほら、頑張れ」
「ええー!」
 そんなやり取りを聞きながら、晶は宇宙のその奥の宇宙をもう一度見つめてみました。その視界の左端を、掠めるようにしてまた一つ流れ星が落ちていきます。ざわざわと、地球が静かに夜の風の歌を歌っています。
 この地球の外には、あんなに沢山のこの星と同じような光が浮かんでいるのだと想うと、何だかとても不思議でした。
「――流れ星、は、」
 三回唱えられたら願いが叶うなんて、そんな無茶な伝説、何処の誰が言い出したんでしょう。あの一瞬に三回なんて、本当なのか嘘なのか、確かめることも出来ません。
 満天の星空の下を、不釣合いの難しい声が二人分延々と続きます。その間にも、流れ星は素知らぬ顔で空を流れていくのでした。やがて、眉間に皺を寄せるのに疲れてしまった晶が、ひとつ溜息をつきます。釣られるように、理紗も溜息をひとつ。素知らぬ顔で空を見上げているお父さんを見ると、晶は尋ねました。
「……お父さんはどう思う? なんで叶うなんて言うのかな?」
「お父さんか? ……そうだな。じゃ、お父さんの知ってる話を一つしてやろうか」
 詠うように、お父さんが言います。
「流れ星は、遠い遠い宇宙からやってくる。そして、地球の手前の大気圏で粉々になっても、地球にはそっと降ってくる。さて、では、何の為にでしょう?」
「……何の為、に?」
 考えたこともなかった問いかけに、二人は一緒に首を傾げました。静かな静かな沈黙の後、そっと、お父さんが呟きます。
 
「それはね――― ………」







「悲しいだけも楽しいだけも嫌だと言って」







記憶と記録――(箱庭の神様)

 衛生的過ぎるほどの、白いカーテンは死んでいた。
 閉ざされた窓ガラスの向こうには、対照的にも程がある快晴の夏の空。最も、遮断されたこの場所には、夏の猛暑など届かない。
「ねえねえ、理沙(りさ)ちゃん、今日は何書いてるの?」
「ん、今日はー、ちょっと詰まっちゃったから、息抜きに別の話書いてるの。…ね、ちょっと読んでみてくれる?」
 此処からでも、蝉の声が煩いくらい聞こえる。あの、大勢の人から恨みがましい想いを一斉に受け止めている太陽の下では、此処よりもどれくらい煩く聞こえるんだろうか。一夏前の記憶の中からは、蝉の騒音なんて気に留めるまでもなく抹殺されてしまっている。
「うわ、すごい! ねぇ、この子、こないだ言ってたお話の中にも出してあげたら? 魔女の友達みたいにして、一緒に空飛ぶの!」
「あ、それ最高! こんなのに乗った魔女なんてなかなかいないよねー! じゃあ、他のみんなも、みんな不思議な感じで空飛ぶことにしてみよっかなぁ……。」
 随分近い場所を、鳥が飛んで行った。何の鳥かは解らない。……地上よりは、空はまだ涼しそうに見える。でも、太陽に近いなら、暑いんだろうか、やっぱり。
「…ねー、ゆーちゃん。こうやって物語書くの凄く楽しいし、…大好きなんだけど、あたし最近想うことがあるんだよ」
 カラカラカラカラ。
 蝉の鳴き声が、微かに掻き消される。多分、扉の前を、点滴を付けた患者が歩いていった音。スリッパの音が重なった気がしたから、きっとそう。
「なんて?」
 カーテンが一瞬だけ息を吹き返し、すぐ元に戻る。近くに居る患者が、ちらりとそれを見て、すぐ元に戻した。その横を、此処には不自然な健康な子供が、軽やかに走り抜けて行く。
「いやね、本当に全然書き終えられないからさ……。もし本当にあたしが死んじゃったら、このあたしのお話、どうなっちゃうんだろ? って。」
「あ……そっか…そうだよね。」
「…あたしが死んじゃったら、みんな、物語の中でどうなるんだろ? とか、いなくなっちゃうのかな? とか、さ。だって、それきり、みんなの旅とか時間とか、止まっちゃうでしょ。まだお城にも辿り着けてないのにー」
 開いたままの扉から、入れ替わるようにして今度は看護士が入ってきた。
 ファイルやら、カルテやら、細々としたものを眺めながら、白い部屋の中を歩き回っている。微かな笑みの裏の感情は、自分には分からない。
「こうやってあたしが書いたのも、みんな忘れられて、どうなっちゃうんだろう、とか。」
「うん……」
「……あたしが死んだら、そしたら、…やっぱり、この小さな世界も一緒に死んじゃうのかな……?」
 もう一度窓の向こうを見ると、空に、音も無く白い亀裂が刻まれていくところだった。少し震えているそれは、空を割れる訳もなく、尾の方から空に飲み込まれて掻き消されて消えていく。
「……大丈夫、だよ、きっと。きっと残るよ」
「どうして?」
「だって、死神って、優しい人だもん。」
 ……きっと、明日も、嫌になるような快晴が続くのだろう。
「…っ、何それ、初めて聞いた」
「あああ、笑わないでよ! ほんとなんだってば! ほんとにね、死神さんって怖くないよ、優しい人だから大丈夫だよ。理沙ちゃんのこと迎えにきても、理沙ちゃんの世界はきっと残しといてくれるよ」
「…ほんとに……?」
「うん、きっと!」
 ふと。
 窓際のベッドに腰掛けていた子供が、自分の方へ顔を向けた。点滴の管が小さく揺れる。しかし目が合うはずもなく、その視線はくるりと円を描いてベッドの中へと戻った。
「………んー…でも、なんかそれもそれで複雑だなぁ……こういうの『オヤバナレ』って言うの?」
「あはは、そうかもね。じゃなきゃ『ヒトリダチ』かも」
「なーんかあたしがみんなに置いてかれてるみたい」
「えー、そうかなぁ」
「ん、でも、独り立ちか、それもそれで素敵かもね。あたしの知らないところで、みんなは生き続けて、それで、物語もちゃんと続いていく訳か。………でも、…だったら……。……ねえ、ゆーちゃん。お願いが、あるんだけど………」







「彼女は小さな神になり」







走り書き――『死生追想(メメント・モリ)』
 
 死ぬということは、実は案外非常に簡単である。
 生きようとする意志さえ殺してしまえば、行動を止める足枷は何も無い。
 例えば、赤信号の横断歩道に、飛び込んでみる。
 綺麗なメロディを奏でているプラットホームで、イエローラインから三歩前へ歩いてみる。
 踏み切りのサイレンに耳を塞いで、線路に立ち入ってみるなり、歩道橋の手すりを、ちょっと乗り越えてみるなり。
 境界線をちょっと越えれば、まず簡単に人は命を落とすのだ。それ以外にも、方法なんて数え切れないくらいあるのだろう。

 故意にしろ、無意にしろ。
 身を潜めているだけで、死というものは実は普通に隣に座っている。
 人間には、守るものやら守りたいものやら守らなければならないものやら、それこそ沢山あるのだから、故意で境界線を越える者は少数派なのだろうが。

 ――――では、故意で無ければ?

 死ぬということは、どういうことなのか、私は深く考えるでもなく、極端な妄想に確信を抱いたまま、死んだ。しかし、今も私は死ぬということが良く解っていないようだ。
 もしかすると、これは唯単に、私の見ている夢に過ぎないのかもしれないのだが。

 死ぬということは、どういうことなのか。いやむしろ、私達が生きている、生きていた、ということは、どういうことなのか。私は知らない。
 解るのは、死は考えていたよりも遙かに近く隣に並んでいたということだけだ。

 基本的に、人間は、特にこの国の人間は、死を忘れている人間が多いようだ。今日も、また一人。私の見ている側で、その人間の身体は壊れた。信じられないと、呆然とする魂を、私はそっと抱き抱えて連れて行く。
 死を想えと、誰かは言った。嫌になるほど難しい注文だ。
 せいぜい私が覚えていられたのは、明日、私は死んでいるのかもしれない、という、ぼんやりとした仮定の話だけ。

 パラドックスを、想う。
 では、私達が生きているという、この奇跡にも近い確立の意味は、何だったのか?
 偶然に擦れ違っただけの人間にも、地球の裏側にいるだろう人間にも、重い長い人生と個々の感情が其々備わっているという当然の図式を、何故私は生きる内に忘れてしまっていたのだろうか?





「――言葉の中に永遠を刻んだ」








――(そして……)

「……あれ、なんだ此処にいたんだ。お店の方にいないから何処かと思ったら――ねえ、何してるの?」
「あ、架音ちゃんだったんだ。ごめんね、ドアチャイムは聞こえてたんだけど、ちょっと今手が放せなくて」
「放したくなかったの間違いでしょ。どうするの、私じゃなくて普通のお客さんだったら」
「大丈夫、どっちにしろあと一分くらいで行ったと思うし」
「その間は待たせっぱなしですか」
「ちゃんと謝ります、もちろん」
「全くもう……。……何書いてたの、今日は? いつもの?」
「それは昨日で一応区切りがついたから。とりあえず次の話を書く前に、今日は、ね。個人的に」
「ん……なにこれ? なんかいつもと感じ違うね。あと何、そのノート」
「ああ、これは昔の友達のなの。……ちょっとした、約束でね」
「約束?」
「うん。『ゆーちゃんの中にみんながもし残っていたら、たまに思い出してあげて』って」
「………? だれ、みんなって?」
「友達の考えたお話の中の登場人物。その子は……、もう、書けなくなっちゃったから」
「……ふーん……」
「で、思い出すだけじゃ忘れちゃうかなって思って、私の中にいるその子たちを、こうやってたまに私の世界の中で遊ばせてみてるの」
「それがこの話?」
「そうそう。あと、友達がちょっとだけ書いて挫けちゃった話とかも、私が私なりに引き継いで書いてみたりね。共同作業のようなものかな」
「その友達さんの子と、綾さんの中にいる子を会わせてみたりとか?」
「そうそう! 一緒に書いているみたいで凄く楽しいの」
「……全くもう。お店の方も忘れないであげてよ」
「うんうん。……あ、でも、ちょっと、一時間くらい留守番お願いしても良い?」
「えええ!? なんで私が!」
「せっかく完成したから、友達にちょっと聞かせてあげて来ようかと思って。ここから五分も無いし、何かあったら電話してくれればすぐに帰るし」
「……ああ、そういうこと……分かった、はいはい、いってらっしゃい」
「うん。よろしくね」




 ――言葉だけが、このノートの中に残されて。途中で途切れた物語が、どんな結末を迎えるはずだったのかは、私にはもう分からない。
 だけど、きっと、文字もページも超えた向こうで、貴女だけに聞こえた物語の唄は続いているんでしょうね。
 私たちは、それを書き写し伝えるだけ。

 其処に在る想いも、伝えたかった唄も、私には分からない。だけど、其処に在った想いと、伝えられた唄は、ずっとずっと覚えているから。

 貴女の中のあの子たちと、私の中のあの子たちは、魂さえ違えど、心だけは通じていると信じています。

 詠ったのは、彼女。
 そして奏でるのは、私。

 今日もこっちは良いお天気。貴女の描いた子供達も、とても、良い笑顔です。
 貴女もそちらで、どうか素敵な良い夢を。

 ――とある人のとある日の日記より










FIN


08年 文芸部誌「游」 新入生歓迎号掲載

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