一匹の魚が泳いでいる。
 私は水族館にいる。私は天井まで届く巨大な水槽を見ている。
 その中を、青い光に包まれた一匹の魚が泳いでいる。
 他には誰もいない。
 広大な空間の中を、彼(彼女?)は一人きりで泳いでいる。宛もなく、

 ふいに、尾を閃かせて、彼(ということにしておこう)が、私の方へ近づいてきた。
 透明な壁に、彼はぶつかることもなく、またひらりと青い光の中へ戻っていく。
 彼は、私よりもずっと大きかった。青灰色の肌が美しい。水中に差し込む人工照明の網を軽々と潜り抜け、彼は泳ぎ続ける。ひらりひらり、もがくように身をくねらせている。

 彼の、口の辺りの皮膚が、つ、と裂けた。泳ぐほどに、皮膚はめくれていく。皮膚の切れ間から、青みがかった肌色が覗いている。彼の身体がぼこぼこと歪む。口があった場所から、指先が逃れ出た。とたん、押し広げるように、彼の皮膚が大きく裂けた。彼の魚の形が崩れ、さっと後ろへ逃れていく。腕が伸ばされ、頭と胸が生まれ。滑らかな、鱗一つない顔がこちらを向いた。瞼は閉じられている。今、彼の皮膚は背鰭の終わりのあたりまで、めくれあがり、後ろに棚引いている。しなやかな尾だけが、もがいている。
 彼の目が開いた。力なくぶらさがっていた腕でなんとか水を掻き、泳ぎ始める。異変にはすぐ気づいたらしい。尾の方を振り返った彼の表情が恐怖に歪む。彼の身体は、未だ、腰の下から魚にはっくりと飲み込まれている。脱ぎ捨てようといくら尾をくねらせても、彼の足は食べられたまま、別の世界に留まっている。

 青く巨大な水槽に、ひとりきり、彼が泳いでいる。
 空から降りられなくなってしまったように。
 もう、彼は何処にもいけない。




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