――ふいに足先に何かがぶつかって、私は音楽の中から現実へ引き戻された。
 頼りなく街灯に照らされた、細い鉛筆みたいな何かが、ころころと転がっていく。……違う、色鉛筆だ。空色の。印刷された金色の文字が、点滅する弱い光を反射してちらちらと光っている。
「…なんでこんな所に」
 思わず呟いて、私は軽く辺りを見回した。
 初夏の宵時。住宅街には、ぽつぽつと灯りが灯っているだけで、外に人の気配は無い。普段なら、会社帰りのおじさんや、私のような塾帰りの学生が歩いてる時もあるけど、今日は私一人だけだった。
 一度だけ、一人で軽く首を傾げて、私はまた歩き出した。不思議な落とし物もあるものだ、と、それだけ思って、その色鉛筆は私の世界からいなくなるはずだった。
 数歩歩いた先で、あの人に気づかなければ。
 その人は、小さな家の前の、やっぱり小さな階段に、隠れるみたいにひっそりと腰掛けていた。膝に大きなスケッチブックを広げていて、その横には、ほぼ空っぽの小さな色鉛筆のケースが置かれている。そして足元には、沢山の色鉛筆が好き勝手に散らばっていた。
 明らかに慌てながら、その人は何だかたどたどしい手付きで色鉛筆を拾ってはケースに戻しを繰り返していた。長いブラウンの髪が揺れるのが見えて、女の人だと分かる。何となくだけど、私は状況を理解して、少し考えて、数歩後ろを振り返った。街灯の光が、さっきの色鉛筆をまだひっそりと照らしている。何かの拍子で、多分、ここまで転がってきてしまったんだろう。この辺りは、微かにだけど下り坂になっているから、それで、かもしれない。何にせよ、あんな場所にあったんじゃ――さっき私が、道の端っこに転がしてしまったし――あの人には見つけられないかもしれない。
 また少し、考える。……このまま歩いて行ってしまっても良かったのだけど、私は引き返して色鉛筆を拾い上げていた。
 何とかほとんどの色鉛筆を拾い上げたらしいその人は、案の定、困った顔をして辺りをきょろきょろと見回していた。――持ち前の人見知りが、少しだけ私の心臓を圧迫する。だけど、此処まで来た以上、もう引き返せなかった。耳を塞いでいたイヤホンを引き抜く。流行の歌姫の声が、すぅっと消えていった。
「―――あの」
 私が声を掛けると、弾かれたようにその人は顔を上げた。綺麗な黒い瞳と目が合って、思わず、少しだけ目線を下に逸らしてしまう。視線逃れで、藍色に彩られたスケッチブックを見つめながら、私は右手を差し出した。
「……落ちてましたよ」
 小さな息を呑む気配。それから、ありがとうございます、という柔らかいソプラノの声。私の右手に細い指先が触れて、顔を上げると、その人はふんわりした笑顔を浮かべていた。
「助かりました。この色が無いと描けなくて」
 優しそうな人だ、と思った。
 私の中の緊張が少しだけ解(ほぐ)れて、目の前のスケッチブックに描かれた絵が、改めてくっきりと視界に飛び込んでくる。藍色の中に空色や白や、沢山の色が溶け込んだ絵。その深い蒼の底に、家並みと一本の道、一本の街灯が描かれていた。街灯の光の周りで、くるくると魚みたいな影が躍っている。かなり思い切り眺めてしまったから、私は控えめに笑顔を浮かべながら言葉を贈った。
「綺麗な絵、ですね」
 半分くらいは社交辞令だったのに、その人は本当に嬉しそうに、くすぐったそうに、はにかんで肩を竦めた。
「……あの街灯――そこの街灯の光に集まる虫たちが、渦を描く魚の群れに見えて――この通りを海に沈めてみたんです」
 その人の指が、そっと私の後ろを指差す。振り返って見ると、何の変哲もない、有り触れた唯の街灯が立っていた。さっき私が色鉛筆を拾った街灯とそっくり同じ。ただ、飛び交う羽虫や蛾の数々までは、言われるまで私には見えていなかった。
 不思議な人だ、と私は視線を戻してその人を見つめた。とたん、やっぱり笑顔を返されて、眩しくなって一歩足を下げてしまう。下げてから少し後悔したけど、もう遅い。……何となく、もう少しだけ、あの絵を見ていたかったのに。
「…それじゃ」
 小さく会釈をして、私は歩き出した。最後にちょっとだけ振り返ると、その人は、スケッチブックを抱いて立ち上がっていた。少しだけ名残惜しそうな声が――思い上がりだったのかもしれないけど――私の耳に届く。
「また会えたら、良いですね」
 最後に見た表情は、何故か少しだけ寂しそうだった。
 それも、光のいたずらだったのかもしれないけれど。





『飛べない小鳥は 空に焦がれて
 折れた翼で 羽ばたいて
 その度その度 骨が砕けて
 世界は悲鳴に溺れていくから
 だあれの声も 聞こえない

 真っ暗 真っ黒 井戸の底
 何も見えない聞こえない分からない
 残像に霞む空の声
 心の奥の井戸の底

 そんな貴方を 私は笑った
 必死に微笑む 貴方を笑った
 雲の上から穏やかに
 冷たい井戸を見下ろして


 翼の折れた 貴方の心
 誰の目にも 映らずに
 なんて、残酷な 温もりの雨』


    ―――ある少女の日記





(――五月二十八日 一日目)

 記憶の海から浮上して、架音(かのん)は溜息の様に小さく息をついた。
「ここ、お店だったんだ……」
 独り言を呟きながら、あの時は気づかなかった看板へもう一度目を向ける。
風のとまり樹――どうぞ一休みしていって下さい
 ほわほわと湯気の立つティーカップのイラストと、流れるような字体が刻まれた、木彫りの看板。人を呼ぶ意思が全く感じられないそれは、ハーブの寄せ植えに隠れるようにして、扉の横にちょこんと立て掛けてあった。
 ――あの、何処か不思議な夜から、二週間。
 目の前には、古くなって所々が色褪せたオーク材の扉が佇んでいる。控えめな装飾があちこちに施された、昔の洋館にあるような、ひっそりとした綺麗な扉。そして、その扉と道路との間には、あの夜にあの人が腰掛けていた小さな階段が、静かに鎮座していた。
 あの夜から、架音はこの道を通る度、控えめに窓を見上げたり、小さな庭を見回したりを繰り返していた。……何故か、何となく。あのふわりとした笑顔に、もう一度会ってみたくて。
 その度、窓は淡いレースのカーテンが掛かっていたり、庭は水やりを終えた後でしっとりと濡れていたりで、一度も再会が叶った事は無かったのだけど。

 看板の隅に小さく書かれた営業時間を確かめてから、架音は鈍く光る真鍮のドアノブに手を伸ばした。がちん、と冷たくも温もりのある音と、手応えが手の平に伝わる。オルゴールと鈴を合わせたようなドアチャイムが、高く澄んだ声で、歌を奏でる。
「――いらっしゃいませ」
 優しいハーブの香りがして、聞き覚えのある柔らかい声が響いた。
 視線の先、小さなカウンターの中に立っていた人影がこちらを振り向いて、架音に気づいたとたん、その顔に笑みを浮べる。
「こんにちは。また会えましたね」
 カウンターの中のその人は、長い茶色の髪を高い位置で少し結い上げて、紅葉し始めたイチョウ色のエプロンを纏っていた。そのあまりに率直な反応に、架音も少しだけ笑みを零す。軽い会釈で挨拶を返して、架音はカウンター席の一番端っこに腰を降ろした。
「…覚えてたんですね、私のこと」
「私、こういう方面での物覚えは良いんですよ。私の絵を褒めてくれたなんて、珍しい方なら尚更です」
 楽しそうに言葉を続けながら、あの夜に色鉛筆を握っていた手がメニューを差し出した。ハーブティーと紅茶が、パステル調の色彩の中で、仲良く半分ずつ紙面を分けている。取りあえず林檎の紅茶を頼んでから、架音はそっと後ろを振り替えった。
 狭い店内は、午後の斜光でセピア色に染まっている。席はカウンターに幾つか並んでいるだけで、その他の空間はそれぞれ別の物に埋め尽くされていた。ドライハーブを束ねた小さなブーケだとか、木棚に並ぶ紅茶やハーブティーの茶葉だとか、籐(とう)の篭にちょこんと納まっている、カラフルなアロマオイルや、お菓子のようなアロマキャンドルだとか。唯一空いている壁には、木の枝で組まれた額に入って、何枚かの絵が飾られていた。
 一通り辺りを見回してから、架音はふと自分の隣へ目を向けた。何席か間を挟んで、小学生くらいの女の子が、本を手に足をぶらぶらさせながら席に座っている。架音の視線に気づくと、その子はにっと歯を見せて笑って見せた。ショートカットの黒い髪が揺れる。
「ねえ、お姉ちゃん。ここ、初めて来たの?」
 大きな目を輝かせて、その子が架音の方へ身を乗り出してきた。
「…あ、うん。今日、初めて来たの」
「やっぱり! えへへ、此処、良いお店だよねー」
 勢いに押されて、鸚鵡(おうむ)返しに架音が頷いたとたん、女の子が嬉しそうに目を細める。
「此処ね、あたしの秘密基地なんだ。お茶は美味しいし、割れたクッキーならタダで貰えちゃうし、本読んでも宿題やっても良いんだよ。綾さん、お客さんいない時だったら宿題も教えてくれるんだ」
「…小学生の問題でも、たまに間違えちゃうんですけどね」
 甘い林檎の香りが漂って、架音はカウンターへと顔を向けた。ガラスのティーポットをお盆に乗せたあの人が、くすくすと恥ずかしそうに笑っている。湯気の立つポットと温められたカップが、丁寧に架音の前に差し出された。
「どうぞ、冷めない内に」
 一言お礼を言って紅茶を注ぐと、架音は一緒に置かれたカラフルなハート型の角砂糖を摘んだ。一つ二つと茶色い水面に落として、顔を上げる。
「……綾さん、って言うんですか?」
「…え? あ、はい。綾瀬――綾瀬夕奈(あやせゆうな)と言います。そっか、瑠美(るみ)ちゃんから聞いたんですね」
 合点がいったように頷く夕奈を見て、瑠美が得意そうに胸を逸らした。そして、そのままこくりと首を傾げる。
「お姉ちゃんはなんて名前? あたしはね、萌沢瑠美っていうの」
「私? ……藤峯架音」
「カノン! あたし、音楽の時間で同じ名前の曲習ったよ。じゃあ今から架音お姉ちゃんって呼ぶねっ」
 楽しそうに手を叩く瑠美に、架音は苦笑して頷いた。最近の小学生は元気だなあ、なんて、そんなことを考えながら紅茶を一口含む。
 甘酸っぱい林檎の風が、ふうわりと口の中に広がった。
「…すごい。おいしい……」
 思わず、吐息と一緒に言葉が零れる。照れ笑いを浮かべた夕奈が、そっとキッチンの方へ目を向けた。
「普段は大抵オーナーが淹れるんですけど、今日は茶葉の買い付けでいないので……良かったです、喜んでもらえて」
「大丈夫だよ、絹雪さんのも美味しいけど、綾さんのもいつもちゃんと美味しいもん」
 ありがとう、と夕奈が瑠美の頭を優しくぽんぽんと叩いた。カウンターから体を離しながら、言葉を続ける。
「私は少し奥に戻ってますね。えっと、――架音さん。瑠美ちゃんも言ってましたけど…ここは本当に名前のとおりの場所なんです。どうぞ疲れが取れるまで、のんびりしていってくださいね」
「……え? …あ、でも――」
 あの夜と同じように笑う夕奈に、架音は一つ瞬きをして眉をひそめた。…社交辞令、と分かっているはずなのに、この人の言葉だとうっかりそれを信じてしまいそうになる。うろうろと視線を彷徨わせる架音を見て、夕奈はおどけるように肩を竦めた。
「たまには、少しくらいゆっくりしようじゃないか、がうちのオーナーの口癖なんですよ」
 すぐそこにいますから、何かあったら呼んで下さいね。
 小さく一礼して、カウンターの奥――に掛かる、淡いレースのカーテンのそのまた向こう――へ消えてゆく夕奈を見送って、架音は小さく溜息をついた。……そうは言っても、やっぱり、長居はお店にも迷惑だろう。飲み終わったらすぐ帰ろう、とカップを口に運んでいると、瑠美が横から架音の腕をつついた。
「…ねえねえ、架音お姉ちゃん。凄い秘密教えてあげようか」
 とっておきの内緒話をする時のように、目をきらきらさせた瑠美が架音を見つめる。夕奈が奥にいることを一度振り向いて確認すると、瑠美は声を落として囁いた。
「今日はいないんだけど――優樹(ゆうき)お姉ちゃんっていう人が、教えてくれたの。実は此処って、天使とか死神とか妖精とか、そんな人たちさえ遊びに来るような、凄いお店なんだって。天使や死神の仕事も結構大変だから、皆ここでゆっくり羽を休めていくの。だから、私たち人間も思う存分ゆっくりしていって良いんだって」
 あのね、
「このお店、魔法が掛かってるんだよ」






『廻り続けるわたしたちは 
 内包するものに気がつきもせず
 幸せも 不幸せも
 みんなみんな流されていく


 麻痺した視界に映るもの

 錆びた鼓膜に響くもの

 死んだ心に届くもの




 世界はそして願うのだろう


 嗚呼

 どうか

 もう一度、       』

 ――ある少女の走り書き







(七月二日―― 十一日目)

 梅雨の長い雨が降る音が、薄っすらと店内に響いている。
 一瞬、夢の向こうへ飛んでいた意識を、架音は慌てて引き戻した。ぼうっとする頭を振って、勝手に捲れていたページを、元の章まで戻す。ページを埋め尽くすアルファベットの連なりが、焦点を外れて霞んで見えた。…多分、今週の寝不足のせいだ。
痺れた瞼を揉んでいると、ことり、と硬い音がした。
「……架音さん、大丈夫ですか?」
 心配そうな夕奈が、頼んだレモングラスのアイスティーを持ってきてくれていた。涼やかな氷の音が、耳に心地良い。草原のような青い香りが、レモンの香りと一緒に通り抜けていく。
「ありがとうございます……」
「レモングラスに、ミントを数種類ブレンドしてあります。眠気覚ましと、疲れが少しでも取れるように」
 にこ、と微笑んだ夕奈に、少し力の抜けた笑顔を返す。このやりとりも、もう随分慣れたものだ。
 初めて、風のとまり樹へ来店してから一ヶ月――いつの間にか、此処を訪れる間隔が少しずつ狭くなり、最近では専ら、架音にとっては自習室の代わりとなっていた。真っ白な蛍光灯の下、真っ白な壁と机に囲まれた塾の教室よりは、この温もりのある店内の方が、よっぽどストレスも溜まらずに勉強が進む。
 初めは、遠慮もあって三十分か一時間程度で引き上げていたのだが、少しも気にした様子を見せない夕奈と、普通に半日以上居座ると言う瑠美と一緒にいる内に、架音の中からもそういうものが薄れてきたらしい。
『――私は本当に、それで良いと思っているんですが』
 一度だけ、やっぱり悪いのではないかと零(こぼ)した架音に、夕奈は笑って告げた。その隣で、この店のオーナー――絹雪貴裕、と彼は名乗った――さえも、飄々とした笑顔で頷いてみせたのだ。
『世界はあまりにも早く廻る。だからこそ、羽を休めることの出来る場所を創ろうと思ったのです。思う存分ゆっくりしていってくださいませ』
 しかもおまけでウインクを一つ。
『ついでに、瑠美ちゃんも言ってましたがね――この店に限っては、金がどうとか都合がどうとか、そういう現実的なことも、心配しないで良いのですよ』
 何故か胸まで張って断言されて、架音はそれ以上何も言えずに、首を傾げながらも頷いて――話はそこで終わりになっていた。
(……魔法……なんて言ってたな、瑠美ちゃん……)
 冷たいグラスで、眠気から来る手の平の熱を冷ましながら、架音は溜息を付いた。そんな言葉を信じるには、自分はもう大人に成り過ぎている。それでも、架音の中で、この狭い店が学校よりも塾よりも、自分の家よりも、心が安らぐ場所に成りつつあるのは事実だった。
(世界は、あまりにも)
「早いですね――空の色が、もう夏の青に近くなってますよ」
 カウンターを拭いていた夕奈が、そっと呟いた。
 つられて顔を窓の方へ向けると、さっきまで降っていた雨の代わりに、切れた雲の合間から、随分濃くなった青が顔を覗かせていた。そういえば、もういつの間にか七月だ。
「梅雨明けまではまだありますけど……」
 布巾をゆすぐ音が止んで、夕奈がそっとカウンターを離れた。一瞬視線を合わせて、お互いに小さな会釈で言葉を交わす。誰かとの時間を求めるお客様とはお喋りを、一人の時間を望むお客様には静かなひとときを――が、このお店の鉄則らしく、架音が勉強に精を出している時、夕奈は大抵カウンターの奥へ戻っている。それは、たまに夕奈と並んでカウンターに入っているオーナーも同じで、カウンターの中にいる時も、大抵静かに作業をしているか、読書に励んでいることがほとんどだ。
 ちなみに、カウンターの奥、白いレースのカーテンの向こうは、ちょっとした休憩室のようになっているらしいと、瑠美が一度こっそりと話してくれた。
『でも、別の部屋に行っちゃう訳じゃなくて、あそこもカウンターの続きみたいなものだからさ、何かあったらすぐ出てきてくれるんだよ』
 それにしても、不思議だ。
「……普通、騒がしい人と一緒になること、ありそうなのに」
 もう何度もこの店に足を運んでいるが、少なくとも自分がいる時に、勉強の邪魔になるような人が店を訪れたことはない。瑠美が隣に来ることはあるが、彼女も勉強の過酷さは理解しているのか、架音が参考書と悪戦苦闘している間はずっと静かにしている。
「…ま、いっか」
 もしかすると、此処は塾や学校よりもずっと静かな場所かもしれない。





「あー…雨、上がったなぁ……」
 少し曇ったビニール傘が、ほんの少しだけ疎ましい。
 梅雨の間の束の間の晴れ間は、もう季節が夏になっているかのような錯覚に陥りそうになる。初夏の夕暮れは遅い。七時頃になって、ようやく日が沈む。オレンジ色の世界の中、東の方へ、雨の名残の雲が流れていくのが見えた。
「明日は月曜日、か……」
 ちらり、と手首に収まった腕時計を確認する。これから夜遅くまでは塾で講義だ。夏が近づくにつれて、塾や学校の雰囲気が少しずつささくれだってきた。勉強はあまり苦ではないが、空気に悲鳴が滲んでいるような、あの空気が、架音は嫌だった。みんな記憶の中よりぴりぴりとして、疲れていて、些細なことでも全てが崩れてしまいそうな――
(…冬とか、どうなるんだろ)
 思い描いただけでげっそりとして、その想像を掻き消すように、畳んだ傘の先で水溜りに波紋を描く。西の光を反射して、水滴がオレンジ色にきらきらと光った。
「………」
 憂鬱になっている自分に、心の中で喝を入れる。――気分を変えるには、音楽が一番だ。塾に着くまで、と片手で器用にイヤホンを引き出していると、ふと、軽い足音がぱたぱたと近づいてきた。歌声の向こう側で少しずつ大きくなる足音に、やがて、聞き慣れた声が重なる。
「……ん…お姉ちゃん……――架音お姉ちゃん!」
 振り返ると、夕日と同じ色のランドセルを背負った瑠美が、手を振りながら走りよって来た。軽く息を弾ませ、懐かしい黄色の帽子を、うっとうしそうに首の後ろに引っ掛けている。
「なんか久しぶりだねー、元気だった?」
「うん、…今帰りなの? 小学生なのに」
 店に通うようになってから、いつの間にか随分と仲良くなっていた小学生の友人を見下ろして、架音は首を傾げた。小学生の下校時間は大体三時から四時頃ではなかったか、と記憶を辿っていると、瑠美が笑った。
「友達とずっと遊んでたんだ! 先生は五時に帰りなさいとか酷いこと言うけど、こんなに明るいし、大丈夫でしょーって思って。それにあたしの家、此処のすぐ近所だから」
 ああ、なるほど、と架音の中で抱いていた疑問が幾つか溶ける。やたらいつもあの店に瑠美がいたのは、家が近いという理由もあったのか。
 並んで歩きながら、他愛も無いことを幾つか話していると、あっと言う間にお互いの道が分かれる交差点に辿り着く。赤信号でお互いの足が止まった時、ふと、瑠美が架音の手を引いた。
「ねえ、架音お姉ちゃん。お姉ちゃんてさ、もう優樹お姉ちゃんに逢えた?」
「……え?」
 唐突な質問に、架音の思考が数瞬止まる。あの日、瑠美がこっそり伝えてきた内緒話が、頭の奥で小さく木霊した。
 優樹。一番最初に店を訪れた時から、名前だけは強烈に印象に残っている。それなのに、今日までまだ一度も会ったことは無い。黙って首を振ると、そっか、とだけ短く呟いて、瑠美は手を離した。何処か影の落ちたその表情に、ちり、と架音の中を違和感が掠める。
「…もう結構何度かお店には行ってるんだけど……いつも擦れ違っちゃってるのかな、」
 何となく、言葉にも出して話題を続けると、瑠美は小さく首を振った。
「ん、うーん……多分違う…優樹お姉ちゃん、綾さんと一緒にあのお店の二階に住んでるんだもん」
「え?」
 ついさっき発したものと、同じ音が唇から零れる。だけどさっきとは明らかに違う響きの声を掻き消して、青信号のメロディが交差点に流れ始めた。歩き出した瑠美が、足を止めたままの架音を振り返る。
「架音お姉ちゃん?」
「え? あ……青? …ごめん、ちょっと……なんか」
 語尾を濁らせながら、慌てて横断歩道へ足を踏み出す。さっさと渡れ、と告げてくる青信号の点滅に、架音は足を速めた。
 別れ道まであと十数歩。
「――ねえ、瑠美ちゃん」
「んー?」
 お互いの道が分かれる角に立ち止まって、架音は控えめに口を開いた。
 隣に立つ瑠美が、不思議そうに架音を見上げてくる。
「…優樹さん、ってどんな人なの? なんか――名前ばっかりで、どんな人なのか、私全然知らないから……」
 それともこういうのは、やっぱり詮索ってものだろうか。
「……なんて、ちょっと気になっただけなん――」
「なーんだ、知りたかったならもっと早く聞いてよ! えーとね、優しくて、凄く綺麗な人で、架音お姉ちゃんと同じくらいの年でねっ、苗字は岩織って言って――」
 後から付け足した架音の言葉は、目を輝かせた瑠美には欠片も聞こえなかったらしい。まるで自分のことかのように、自慢げに指を折りながら言葉を並べていく。
「――それで、絵がものっすごく上手なんだよ! 絶対コンクールで賞とか取ってるでしょってぐらい! それから確か本読むのも好きで――」
 十では足りないらしく、その内折った指をもう一度立てて数え始めた。
 その数の多さに逆に架音が混乱してきた頃――ふと、思い出したように、酷くあっさりと瑠美はその事実を付け加えた。
「あ、あと、優樹お姉ちゃん、喋れないんだよね」
「……――喋れない?」
 行き成り飛び込んできた異色の言葉に、架音は思わずそれを聞き返していた。何の特別な感情も交えずに、瑠美は頷く。
「うん。私も、優樹お姉ちゃんがどんな声なのか知らないもん。いつも紙と書くもの使ってお喋りするんだよ」
「そっ、か……」
 変に言葉が詰まるのを自覚しながら、架音は少しだけ視線を逸らした。流石にそれ以上を尋ねる気にはなれない。――違う、尋ねてはいけない、ような、よく分からない暗黙の感覚が広がる。
 そんな架音の思考の外で、笑顔を少しだけ柔らかい微笑みに変えて、瑠美が呟いた。
「でもねー、何て言うのかな、優樹お姉ちゃんって、何も一緒に喋る訳じゃないのに――なんかね、一緒にいたくなるの。ずっと」







(言葉の欠片)


「――寂しそうな目が、似てたんだ」


「みんな同じように頑張っているのに、弱音なんて」


「もう少し、時間の流れが緩やかだったなら」


「私が」


「どうして頑張れないの?」






(八月十七日――十三日目)

 受験生の夏休みは、恐ろしいほど早く突き進んで行った。
 朝から夜までを参考書やテキストと共にし、ほとんどの時間が塾の中で無機質に過ぎ去っていく。窓から外を眺めなければ、一日や時間の概念なんて世界から消え去ってしまったかのようだった。
 勉強に集中している間はまだ良い。だが、ふと集中力が切れた時、疲労やストレスで感傷的になってしまうと、どうしようもなく、溜息を付きたくなる。頭では、今のこの時間が無駄では無いと分かっていても――まだ目標も自信も無い自分にとって、世界をざくざくと切り捨てているような感覚は、拭えない。
 昨日、ふと気まぐれにカレンダーを確かめて、驚いた。今までは気にかける余裕さえなかったが、気が付くと、八月の半分が終わっていたのだ。
「ふー……」
 塾からの帰り道を歩きながら、架音は最近癖になってきている溜息を付いた。幸せが逃げても、一緒に疲労も出ていってくれるなら、それで構わない気がした。蒸し暑い夏は、唯でさえ何もしなくても疲労が溜まる。
「寝不足が全部悪い……」
 ぼそぼそと独り言を呟きながら、人通りの少なくなった道を歩く。それでも、さっきちらりと見た腕時計の短針は、まだ九の数字にぎりぎり届いていなかったのだから、今日はまだ随分楽な方かもしれない。
「…あれ?」
 ふと、架音は違和感に気づいて足を止めた。同時に顔を上げる。
いつの間にか、風のとまり樹の前だった。普段なら落ちている――二階は点いていることもあったけれど――明かりが、一階まで、全部の部屋に灯っている。
「……OPEN=H」
 扉に掛かったままの木の板に刻まれた文字を、架音の口が呟いた。
 夏休みに入ってからの方が逆に忙しくなってしまい、店にはほとんど足を運ぶことが出来なかった。店の営業時間よりも、塾で過ごす時間の方が長かったのだ。
「そう言えば……営業時間、九時までだったんだっけ」
 ふわり、とあの優しく柔らかい香りが記憶の中で蘇る。
(…………ちょっと、だけ…)
 十分でも十五分だけでも、構わなかった。
 無意識にふらふらと扉に近づき、架音は右手でドアノブを引いていた。
 記憶の中と同じ、ドアチャイムの音が響く。
 いつもより少し暗いだけで、店内は記憶の中と少しも変わっていなかった。まるで何処かに帰ってきたかのようで、思わず安堵の息が零れそうになった時――真っ白なワンピースが、カウンターの奥でふわりと翻(ひるがえ)った。
 驚くほど白い顔をした少女の、見開かれた黒い瞳と目があったと思った瞬間、その少女はあっと言う間にカウンターの奥へ駆けていってしまった。垣間見えたのは、顔と同じように真っ白な細い手足。少女の長く黒い髪が、白の中で一際目立って視界に焼き付いた。高い足音が、上へ向かって遠ざかっていく。

(今の、は)
 
「……――架音さん?」
 聞き覚えのある声に、架音の思考回路が一気に現実へ引き戻された。カウンターの中、驚きを顔に湛(たた)えた夕奈が、いつもと同じエプロンを着て、いつもと同じ場所に佇んでいる。
「あ――えっと……、…こんばんは。来ちゃいました」
 言葉に詰まって、曖昧な笑顔を浮べると、夕奈がくすりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ちょっとだけ、お久しぶりです」
 どうぞ、と夕奈が差し伸べた右手でカウンターを示す。久しぶりのその場所へ座りながら、架音はちらりとカウンターの奥へ視線を向けた。静かに揺れるカーテンに遮られて、もちろんその奥が見えることはない。
「――そっか、架音さんは、まだ会ったことが無かったんでしたね」
 ぽつり、と独り言のように呟かれた言葉に、架音は夕奈を見上げた。
「……優樹さん、ですか?」
 何故か、何となく、直感でそんな気がしていた。架音が告げた名前に、夕奈が今度こそ目を丸くする。
「知ってた、いえ――会ってたんですか?」
「瑠美ちゃんから話を聞いてて……」
「――ああ、何となく分かりました」
 その一言だけで合点が行ったのか、夕奈が少し苦笑を浮べながら頷いた。呆れたような、だけど何処か親愛の篭(こも)った、暖かい苦笑い。
「瑠美ちゃんは優樹ちゃんのことが大好きだから……瑠美ちゃん、きっとすごく良い笑顔で話してくれたでしょう?」
「はい、それはもう」
 あの時の、瑠美の輝いた表情を思い出して、架音もそっと笑みを零す。
 喋れない――と聞いた言葉も同時に思い出したが、それは今はしまっておくことにした。久しぶりに見るメニューを手に取って、ぱらぱらと捲る。
「ご注文は何になさいますか?」
「えっと……アップルミントの紅茶を。少しだけ」
 久しぶりに、のんびりと過ぎていく時間。お茶が淹れられていく音を聞きながら、漣(さざなみ)のようにやってくる眠気に身を任せていると、ふいに、夕奈が言った。
「架音さん――優樹ちゃんのこと、驚かせちゃって、ごめんなさい」
 ふわりと、甘い林檎(りんご)の香り。顔を上げると、少しだけ俯いた夕奈と目があった。
デジャヴを感じて、すぐに思い出す。
「もしまた、優樹ちゃんと逢えることがあったら――」
 珍しく、端の消えた夕奈の言葉。見覚えのある、微かに影の落ちた表情。
 言葉に込められた想いはあまりにも容易に想像出来て、最後まで聞かずに、架音は黙って頷いていた。






(言葉の欠片)


「私なんて死んでしまえば良いのに」







(八月二十七日――……)

 夏休みの最後の最後に、一度だけ風のとまり樹に行ける機会があった。
 相変わらず静かな店内と、ゆったりした時間と、涼やかな空気の中で、久しぶりに買い付けから戻ってきていたオーナーが、言った。
「せめて、素敵な夢を」
 紅茶のお釣りと一緒に渡された、小さな香り袋。
 林檎に似た香りのそれを見て、何処か懐かしそうに夕奈が笑う。
「カモミールは、神さまが連れてきてくれた花、なんて話もあるんですよ。今日はゆっくり休んで下さいね」
 首を傾げながら家に帰った架音は、洗面所の鏡に映った自分を見て、苦笑してしまった。目の下に黒々と刻まれた、夏休み最後にかけてのハードスケジュールの証。
「……みんな頑張ってるんだから」
 香り袋を握り締めて、呟く。
 明日からは、もう、学校だ。



 
『この間は、ごめんなさい』

 柔らかいブラウンの色鉛筆が、あの子の言葉の全てを語る。
 少しずつ、少しずつ、
 近くなっていく言葉たち

『またね』

『ありがとう』

『私も好きなんだ』

『また来れる?』

 色鉛筆の文字の連なりの中に
 シャープペンシルの文字の連なりの中に
 まるでひとつの絵のように
 
『この前言ってた本のことなんだけど、』

『それがすっごくおかしくてね――』

『今日は何の絵を描いてるの?』
『――ねえ、このお店って、本当に』

 空の色、海の色、風の色 
 世界の狭間に描かれた、笑顔と涙の色の夢

『時間なんて無ければ良いのに』
 
『だから、ないしょだよ』

『――さみしくない の?』

『どうしていつもこうなんだろう』

『信じるよ』

『人を傷つけるくらいなら、言葉なんか』
『いらない、って』

『もっと早く、もっと前から――』

『どうして、立ち止まっちゃいけないんだろう』

『またね、また来るから。きっと。絶対に』

貴方は魔法を信じますか?




(十一月――……)

 風のとまり樹を訪れることが出来ないまま、一つの月が満ちて欠けた。





(―――………)

「………」
 ふう、と息を吐き出すと、それが白く煙って消える。もう一度しっかり首にマフラーを巻きつけて、架音は足を進めることを再開した。
 ぐるぐると渦を巻く眠気に足を取られて、真っ直ぐ歩くことが出来ない。せめて終電には間に合わないと、とふらつく身体を叱りながら目を擦る。塾を出た時には、もう十一時を過ぎていた。深夜も深夜、最近は慣れたものだが、やっぱり人通りの無い道は怖い。冬の夜の静けさはそれに拍車を掛ける。
 イヤホンをもう一度しっかりと嵌め直して、架音は音量を少し上げた。数ヶ月前に流行った、歌姫の歌。そういえば最近、随分まともにテレビも見ていない。
「眠…い、なぁ……」
 独り言を零しながら、灯かりのほとんど落ちた、いつもの道を歩く。きっと、もう暖かいベッドに入っている人も多いんだろう。今日は帰ったらとにかくさっさとお風呂に入って、英語の復習と宿題と――

(――――おいで)

 ふ、と架音の足が動くことを止めた。
 耳の中を埋める音楽を完璧に潜り抜けて、聞こえた声。そこまで寝不足なのか、とうんざりしながらのろのろと顔を上げる。唯でさえ自分の根性と体力の無さが悔しいばかりなのに、
「――あ、れ……?」
 ずっと足元を見て歩いていたから、気づかなかった。
 一階まで灯った光と、扉に掛けられた板に、刻まれたOPEN。一瞬、この季節に夏の暑い風が吹いていったような気がした。見ることさえ久しぶりに感じる風のとまり樹の外観は、庭に植えられたハーブの種類が季節と共に移り変わっただけで、ほとんど何も変わっていない。
『――どうぞ一休みしていってください』
 扉の横に立て掛けられた看板と、目が合った。
 ぼんやりする頭で、それでも腕に嵌めた時計を確認する。二十三時十一分――絶対に、開いているはずが無い時間。
「なんで……」
 もしかしたら、歩きながら夢でも見ているのかもしれない。ぐしぐしと瞼を擦り、それでも光景は少し焦点がはっきりしただけで、何も変わっていなかった。
「……………」
 まだぎりぎりで目覚めている、架音の中の冷静な部分が告げる。
 無理だ。
 例え何か理由があって開いていたのだとしても、時間的に不可能だ。
 帰れなくなってしまうじゃないか――――
「………かえりたくない…」
 ほろ、と唇から本当の言葉が零れる。
 最近は、寝ることと入浴くらいにしか使っていない家の影が掠めた。最近ではほとんど会話を交わせていない、両親の影も。灰色になってしまった、切り離してしまった毎日の時間の流れも。
 そして、ドアチャイムの音が優しく響く。





「――いらっしゃいませ」
 記憶の中と変わらない声。
 珍しく、席の埋まっているカウンターの中で、少しだけ髪の伸びた夕奈が笑っていた。
「……久しぶり、架音ちゃん」
「…綾さん――」
 ぷつ、と何かが切れた気がした。目に滲んできた何かを擦って誤魔化して、いつものように架音も笑顔を返す。
「ごめ、んなさい……営業時間外なのに、明かりが付いてたから……私……なんか……もう、疲れちゃっ、て……」
 みんなだって疲れているのに、どうして私は頑張れないんだろう。
 目がますます熱くなってきて、これ以上零れてしまわないように、手の平で強く瞼を押さえる。震えそうになる肩を必死で押し留めていると、ぱふん、と何かが頭に触れた。
「……架音ちゃん、今夜一晩、泊まっていかない?」
「え――」
 手を離すと、開けた視界の目の前で、夕奈が微笑んでいた。いつもの丁寧な暖かい笑顔とは違って、まるで友人に向けるかのような、楽しそうな笑顔が滲んで揺れている。
「そう、営業時間外。今の架音ちゃんはお客さまじゃないわ。……ね?」
 でも、とそれ以上二の句を告ぐ前に、とんと背中を叩かれた。振り返ると、カウンターに座った見知らぬ誰かが、同じように笑っている。長く束ねた金髪が、光を反射して微かに煌いた。
「そうそう、此処はむしろそういう店だしなー。遠慮なんかいらないって。そうだろ、夕奈?」
 その背中に何かが、有り得ない何かが見えた気がして――架音が固まる前に、その手が架音を前へ押し出した。
「……あのな、お前の店じゃないんだから……」
「何言ってんだよ、もうほとんどオレ達の店って言っても変わらないだろ? お前だって暇な時いつも手伝っ……いや、冗談冗談、冗談だって…」
 架音がもう一度振り返るより早く、夕奈がそっと架音の肩に手を乗せた。空いた手が指し示した先を見て、架音の瞳が微かに見開かれる。
「…優樹……」
 白いワンピースが、揺れる。口元に微笑みを滲ませて、優樹がカウンターの隅に佇んでいた。
『――ね、言ったでしょう?』
 スケッチブックに、流れるような色鉛筆の文字が咲いていく。
『魔法が掛かってる、って』

『疲れた小鳥の羽が少しでも休まりますように』

 一枚の羽が、ふわりと床へ落ちる音がした。







 アロマランプが、優しく光る部屋で。
 私は不思議な夢を見た。

 真っ白な雪原に、私は立っていて、立っていて、立っていた。ずっとずっと、歩き方も座り方も忘れてしまったみたいに。其処はいつからかずっと暗くて、少しも変わらなくて。私の時間は、夢の中で、止まっていた。
 だけど、突然ふいに其処を訪れた誰かがいた。
 さくさくと、雪を踏む音。足跡から春を咲かせて、その小さな少年は、私の足元で楽しそうに笑った。そして、確かこう言った。
「願いごとは、覚えていますか?」
 夢の中で願いごとなんて無いよ、と私は疲れた声で言った。彼は口を尖らせて、それから笑った。そんな訳ない、と言って笑った。
 願いを願ってごらん。僕がその夢を見せてあげる。
 そう言い募る彼に、私は冷めた声で言った。
 世界はずっと前から、真っ白だったから。

 それならば、
 私の心からの願いとかいうものを教えてくれ、と。
 彼は拍子抜けしたような顔をして、それから、突然、私を抱きしめた。
 暖かい人の温度。置き去りにされて、取り上げられて、私が自分から忘れてしまったもの。伝わる鼓動。消えてしまったとばかり思っていた、ずっと前から見失っていたもの。
 ずっとずっと、無くしたくないと、泣いて探していた、何かが。
 
 そして、彼は呟いた。

 


 大丈夫。ぼくらは、ずっとずっと此処にいるよ。








 
Fin


08年 文藝部誌「eMPIRE!?」文化祭特別号・文藝部誌「游」文化祭特別号(副読本) 掲載


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