彼女はそろそろ一時間、頬杖をついて、窓の外を見つめている。私がボックス席の下に転がってずっと見上げていたのだから、間違いない。
 心地よい振動にあわせ、合成樹脂の床面が鼓動を打つ度に、私は小さく跳ね、転がった。椅子の金具にぶつかってはカンカラコンと音を立てた。静かな車内によく響いた。カーブに差し掛かると、遠心力に誘われるままに勢いよく身体が回った。もはや乗客も疎らな最終電車を端から端まで駆け抜けられそうなほどに。でも出来なかった。彼女の黒い鞄がとおせんぼしていたから。
 彼女は真っ黒だった。緩く結った髪も、瞳も、痩せた身体を包み込むスーツも、装飾のない鞄も靴も。もしかしたら顔も。投げ出されたストッキングの足は唯一ベージュであるように思う。
 黒い鏡と化した夜の電車の窓には、彼女の顔が些細な表情に至るまでよく映っていた。疲労を満面に湛え、眉間にしわを寄せている。重そうなマスカラ。皺に詰まったファンデーションとアイシャドウ。隈の濁り。遠くを見つめて動かない眼球。彼女は美しかった。二十も三十も多く老け込んで見えるのに、彼女はどこまでも若く、美しかった。彼女は本当はまだ二十歳を越えたばかりだ。とてもそうは見えなかったとしても。
 彼女の視線は、黒い鏡を見ずに済むよう、遠くへ固定されていた。疲れているなら居眠りでもすればいいのに、実際、このボックス席に座っていた彼女以外の人間はみんなぐったり仮眠してから電車を降りていったのに、彼女だけはずっと頬杖を付いたまま、窓の外を見つめたまま、動かない。
 私は椅子の下に転がっているから、彼女が何を見ているのか分からなくて、少し寂しかった。
「何か見えますか」
 話しかけてみる。
「何も見てないだけですか」
 彼女の表情には何の変化もない。
「そうですか」
 私は寝返りを打つように転がった。身体の中に僅かに残っていた梅酒が、床に一滴したたった。
 向かいの窓を眺める。黒一色の鏡に、線を引いては流れてゆく遠くの全ての光を見る。
 外灯、コンビニ、家の窓、テールライト、ヘッドライト、壊れかけて点滅する外灯、看板、看板、踏切、信号機、テールライト、テールライト、……。
「まもなく里見町、里見町です」
 アナウンスだ。電車が速度を緩め、私の身体はまた彼女へと向き直った。
「お出口は右側に変わります。なお、本日、上り列車は全て運転を終了しております。お忘れ物にご注意ください……」
 黒い鏡の向こうに蛍光灯が押し寄せて、彼女の表情を隠してしまった。車内に人の動きが戻り、何人かが立ち上がり、扉の前に並ぶ。きんこん、可愛らしい音が鳴って、人々はコンクリートのホームへ降りたってゆく。
 電車が動き出した。私は転がり、また椅子にぶつかってカランと鳴り、何かの拍子に、彼女の鞄の隙間をすり抜けた。
「次は永海、永海に止まります」
 彼女は相変わらず、ぴくりとも動かずに窓の外を見ていた。
 電車の速度が増してゆき、私は床面を勢いよく転がって、転がって、車両の端から端まで駆け抜けた。椅子に座っている疎らな乗客たちはちらりと私に目をやった。車両を繋ぐ扉にぶつかったところで、何者かに蹴り返された。来た道をガラガラと戻りながら、私は振動音と静寂に支配された車内を見た。人々は、決して会話を交わすことがなかった。一時間前、満員になるまでこの部屋に詰め込まれた人々も、決して会話を交わすことはなかった。頭上に揺れる広告たちが、車内に音のない声を大量に供給していた。
 転がりながら、私は彼女の横を通り過ぎた。彼女の姿勢は全く変わっていない。
「まもなく永海、永海です」
 顔を上げた。瞬きをした目には焦点が戻っていた。
 彼女が黒い鞄を拾い上げて立ち上がるのが見えた。私は自分の身体を止められないままさらに転がり、車両を繋ぐ扉にまたぶつかって、またゆっくりと後戻りを始めた。振り子になった気分だった。
「お出口は左側です。永海の次は、本郷、本郷へ止まります……」
 彼女の足にぶつかった。
 美しく窮屈な黒い靴に梅酒がついてしまったかもしれないと私は一人で慌てた。彼女はちらりと、一瞬、私を見下ろして、うっすらと蹴った。私は電車の進行方向右側の扉へと転がって、ぶつかり、突然拾い上げられた。視界がぐうっと持ち上がった。
 私は拾い主に興味はなかった。ようやく目にした窓の外の風景を見つめた。
 明るく淡い夜空の底に沈んだ優しい闇が、樹木と家並みのシルエットを漆黒に切り抜いていた。空と水面に、片羽ずつの蝶のように開かれた風景は、水平線を完全に消していた。今や世界は巨大な鏡になり、上下反転の風景を互いに映し合っていたのだ。黒い空と海の狭間、繊細な黒の畦道に区切られた水面に、遠い車と信号と、整列した外灯が織りなす光の点描が現れる。
 私は隙間風の中に水の匂いと蛙たちの合唱を聞き取った。向かいの扉に寄り添い、冷たいガラスに額を押しつけている彼女を見た。黒い鏡の中で彼女に寄り添っている幽霊が微笑んだ。
 視界が落ちた。窓の外が見えなくなった。
 私を拾った何者かは、私がカンカラ音を立てさえしなければ満足だったらしい。床面にしっかりと立たされてしまった。重力が掛かる。転がろうとする私を壁と椅子の金具が支える。
 私は、彼女が見ていた海をもっと見たかった。夜の海を、田園と住宅地と県道を全て等しく飲み込む闇の海を、水面にきらめく二重の光を。
 電車が止まってしまう。
 私は全身全霊の意志を以て、身体を倒した。彼女へと突進した。
 チャイムが鳴った。
 扉が開き、彼女はガラスに引きずられるように少しだけ横へ転がりながら、顔面から外界へ飛び込んだ。ざっばん、ざぼん、ばざんばどん、美しく黒い海に、永海駅を共有する人々が次々と飛び込んでゆく。
一拍遅れて、私も電車の外へと飛び出した。水面に受け止められ、浮かんだ。
 あの疲弊に老いた美しい娘が、芳しい夜と水の香りを肺いっぱいに食べて、髪を解けるに任せながら、海の奥深くへ泳いでゆくのが見えた。海底には誰かを迎えにきた車の群がヘッドライトで光線のアスタリスクを描いている。誰かが嬉しそうに海底へ落ちていくと、車のドアが開いて、笑顔の男が大きく両腕を広げた。
 彼女はちらりとそちらを見て、笑ったようだった。いつの間にかあの窮屈な靴を脱いで、鞄と一緒に左手に携えている。海水に溶け込んだ蛙たちの大音声に導かれて、ゆったりと水をかき、戯れ、気持ちよさそうに動くベージュのストッキングは、よく見ると、人魚の尾だった。
 海の向こうに、小さな家々の灯りが瞬いている。
 私は彼女を追いかけたかったが、身体の中の空白がそれを許さなかった。暖かな海水は私の中に入ってきてくれなかった。水面に浮かんだまま、私は見送るしかなかった。残念だ。……仕方ないか。電車の中を転がるのも、誰かを追いかけるのも、空き缶にしか出来ないことだ。
 ぴりりりるる、短いホイッスルの後、私の上に落ちていた蛍光灯の光が、扉の向こうへ消えた。
「発車します」
 電車はゆっくりと動きだし、波の轍が海面を押し分けて広がっていった。さざなみに揺られながら、私は海を漂うごみに戻った。



























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