――そして、三度目の箱舟伝説は紡がれる事なく、私達の世界は平和を取り戻しました。
悠久の時を経て、今も尚、西方に広がる雲の峰の天上には、伝承にある蒼の舞巫女様、犠牲となられた王女様方、大いなる私達の父、蒼神様が暮らされており、空に抱かれている私達を――





「“その広い御心で、慈しんで在られます”…とは言いましてもね……」
 風の吹き過ぎる、開放感のある研究室の一角。唯一資料に埋もれていないその机の前で、その部屋の主はため息を一つ紡いだ。困った様な呆れた様な、どっちつかずの吐息が、その手にある古い本のページを震わせる。
「そんなに難しい事をお頼みするつもりではないのですよ。伝え語りは誇張されていく物ですもの。貴方達ならば造作もなく辿り着けるでしょう」
 部屋の主の低い声を遮り、机の向かいに座る女性が穏やかに微笑む。しばらくの沈黙の後、再び部屋の主がため息。開かれた窓から吹き込む風に紛れて、残念ながら女性には聴こえなかったようだが。
「……ええ、それは解っています。ですが――」
「貴方達だから頼んでいるのです。元王宮騎士団員と元王室研究員の営む空索店――私がこれを依頼出来るのは貴方達以外におりません」
「…それも解ってますよ。きっと彼らは聞く耳も持たないでしょうしね」
「もしくはそれこそ命掛けで行ってしまうかのどちらかですわ」
 くすくすと二人分の苦笑が響く。しかし、次に聴こえた女性の声は真剣そのものだった。
「……もう一度言います。出来るだけ急いでそれも確実に、けれどどうしても無理だと判ったらすぐに自らの命を優先して帰還する――その条件を唯一満たしてくれる貴方達に。……私の…このペンダントを、その伝承に残る蒼の舞巫女様の所へ届けて下さい」
「――――……はぁ……」
 三度目のため息。そして、
「……分かりましたよ…どちらにしろお引き受けするまで帰らないおつもりなんでしょう?……お引き受けしましょう。かつての我が主――」
 その言葉に、女性の、空の様に澄んだ蒼い瞳がぱっと輝いた。街娘の一般的な衣服に身を包み、豊かな長い髪を結い上げたその女性は唯の依頼に訪れた若い娘にしか見えない。…だが、服の間から僅かに覗く首元がそれを否定していた。
 店に訪れるまではマフラーで隠されていた首元。そこから見えるのは、蒼く白く輝く“蒼神様の御加護”と呼ばれる、翼の様な文様。この街――ヴァヴィロンに生きる全ての命は体の何処かにこの印を持っている。人間ならば大半は首元に。故に、それだけならば何も珍しい事は無かったのだが、部屋の主の首元とは決定的に違う部分があった。本来なら一対で浮かび上がる筈のその印は、三対の翼となって女性の首を彩っている。即ち、
「……フィーリア女王陛下」
 …王族の証として。


――――――― ◆ ―――――――


「――ルー……ウィル――ウィールーってばーっ!…ああもうっ!聞こえてるんだったら返事しなさいよ!そこいるんでしょー!」
 まだ日も昇らない明け方。かなり近所迷惑になりそうな音量の声と共に、騒々しい物音が階段を駆け下りてきた。最後の一段で、一際大きい音と悲鳴が響く。…どうやら手すりに足をぶつけたらしい。
「阿呆だ……」
「誰が?」
「お前が…―――あれ?」
 思わず本音が漏れた次の瞬間、顔面に自分の大切な研究書が降って来た。
先程の音以上に鈍い音が響いた後、ウィルと呼ばれた、昨日此処で自分達の国の女王と会話をした人物は半目になりながら体を起こした。今の今まで横になっていたソファーに、目の前に立っている女性の武器にさせられた哀れな本が転がっている。……せめて表紙が折れなくて良かった。
「やーっと起きた……朝一で出発って言ったの誰よこの寝坊野朗……ペガサスの整備終わってるでしょうね?」
「ん、ああ……念入りにしといたから多分大丈夫だ。と言うかな、俺はそれに必死になってたからこうして疲労困憊して」
「言い訳無用」
 すぱん、と冷たい声音で突き放されてウィルが天井を仰ぐ。確か俺こいつより四つ年上だったよな。何が嬉しくて朝っぱらからこんな年下にぎゃんぎゃん喚かれて――
「女王陛下の人でなし……」
「フィーリアがお忍びで此処来て無茶頼んでくのなんて別にもう慣れたでしょ?今更文句言わない。…で、もう良いから早く動いて。レイラはもう準備終わって格納庫で待ってるわよ」
 くるり、と身を翻して彼女は階段の方へと駆けて行った。背中で金色のポニーテールが楽しげに跳ねる。それを見送りながら、立ち上がったウィルは微かに眉根を寄せていた。だが、その表情もすぐに諦めに変わる。
「…いくら本人に言われたからって敬称略するな……って言ったってまた殴られるだけだしな…人生で大切なのは諦めだぞ、俺」
 ……地雷は踏まないのが一番だ。


――――――― ◆ ―――――――


「レイラ!もういつでも出発出来る?」
 名前を呼ばれて、杖を両手に抱いた少女――レイラが声の聞こえた方を振り仰いだ。階段の上に微かに見えているポニーテールを認めると、向こうに聞こえるように精一杯声を張り上げる。
「ええ、大丈夫です! ……ところでクライツさん、ウィルさんは…?」
「あー、あの馬鹿ならもう起こしたからすぐ来るわ、多分。とりあえずそれまでの間に、天窓開いて、それから一応メーターチェックね。あと通信機と今日の天候の確認も大雑把には。後は大体ウィルが知らせてくれるでしょ。体調とかの確認も今更だけど余念無く。結構遠いから、今回」
 階段を、騒々しく一段飛ばしで駆け下りてくるごとに増えていく確認項目に、しかしレイラは慣れた様子で分かりました、と頷いた。天窓を開く為のスイッチに手を伸ばそうとして、ふっ、と視線を何かに気付いたのかもう一度上に向ける。そして同時に苦笑した。
「おはようございます、ウィルさん。今日は回復呪文は良いですか?」
「おー…今日はまあ何とか平気かな……。…クライツ、場所と方角と飛行進路と全部確認してあるな?」
顔の一部分が不自然に赤いウィルも苦笑を返し、あちこちに慌しく走り回っているポニーテールへと目を向けながら声を掛けた。
「大丈夫、そっちは任しといて。前人未到って言ったって見える場所なんだし、大雑把なアタリは付けてみたから。でも誘導は宜しく」
 床に置かれた、ペガサスと呼ばれる二台の小さく不思議な乗り物のメーターをチェックしながら、その女性――クライツが言葉を返す。キン、と全てのチェックをクリアした証のランプが小さく灯ったのを確認して、ウィルは頷いた。
「ああ、分かってる。……二人とも悪いな、本当に急で」
「良いんですよ、いつも女王様は急で厄介なお仕事しか持ってきませんし……それに、それは私達が信頼されてるって事でしょう?」
 笑いながら、レイラは格納庫の向こう、綺麗に整頓された事務所へと目を向けた。この依頼が終わる前にまた何か厄介が起きては堪らないからと、先程に魔法で降ろした看板が床に立ててある。
 ごおん、と天窓の開いていく低い音が空気を震わせた。
天空は広い。その空に何かを探す人の為に営まれる店は、ヴァヴィロンでは一般的に空索店と呼ばれている。大手チェーン店も多いが個人経営の店も多い。ちなみにこの小さな店はもちろん後者に当たる。この世界の遠い昔の言葉で、天球儀(セレスティアル・グローブ)と刻まれた看板は、天窓から差し込んだ朝日に照らされて微かに光って見えた。
 レイラにつられる様に、看板に視線を向けていたクライツが天窓を振り仰ぐ。大きく切り取られて見える空からは、東の端に小さく朝日を確認する事が出来た。腕時計を念の為に確認して、頷く。
「…時間的にも良いわね。出発するわ。遅くても明日には多分戻れるから」
「了解。まあ、何事も無いのを祈るよ」
「多分無理ね。フィーリアの依頼だもの」
 さらりと軽くない内容の言葉を告げ、クライツがゴーグルとマイクをレイラへと放る。それをやや目を伏せて見やりながら、ウィルは悟られない程度の小さなため息をついた。同時に、蒼い宝石の付いた鍵を二人に放る。
「……とにかく、女王陛下の命とはいえ、無茶はするなよ」
「はいはい。頼むわよ、留守番情報通信係さん」
 空中で鍵を受け取って、クライツはペガサスの上へ膝立ちで屈みこんだ。四角錐を逆さに置いた様な形の機体。その平らな上部全てが運転席になっている。席と言っても名ばかりで、一般的にペガサスは立って運転する物なのだが。そこには青い魔法陣が描かれていて、頂点にある小さな穴が鍵穴の役目を担っていた。
命綱を腰に結び付けてから、屈んだまま、足元へ蒼い鍵を差し込む。ぶん、と低い起動音を立てて、澄んだ青い光が魔法陣を浮かび上がらせた。同時に、逆四角錐の底からも光が生まれて零れていく。
「反重力装置(クラウフィード)起動完了! ……じゃあね、行ってくるわ!」
魔法陣の両脇にあるバトン状のハンドルを両手で引き出しながら、クライツは叫んだ。一対のハンドルを打ち合わせると、そこから伸びるワイヤーが信号を伝え、逆四角錐の両脇から光の翼が生まれる。そして、
「発進!」
 高い音が空気を震わせ、クライツのペガサスが勢い良く宙に舞い上がった。レイラの機体もそのすぐ後に続く。
大きく開かれた天窓から外へ飛び出していった二台を見送り、ウィルは風圧でぼさぼさになった髪を乱暴に直しながら踵を返した。事務所の方の鍵が閉まっているのを確かめ、自分の研究室へと向かう。
空が一番良く見える位置に固定してあるコンピューターの前に座ると、小さなため息を吐きながらそれを起動した。イヤホンとマイクを取り付け、スイッチを押す前に小さな独り言を呟く。
「何事も無く終わって貰わないと俺が困るんだって…」
 待っているだけの留守番は嫌いだ。……と、仮に伝えたとしても馬鹿にされるのは分かっているので言わない。昔から、クライツに口で勝てた事など一度も無いのだ。気を引き締めるように頭を振ると、ウィルは手元のスイッチを押した。空いている手でレーダーを起動し、凛とした声をそこに吹き込む。
「…こちら、元王室研究院、化学歴史研究室及び気象研究室所属ウィル=モルゲンロート。上空、前方三里に渡り遮蔽物無し、高度三七〇〇地点上昇気流につき…」
 ふっ、と遠い何かを懐かしむ様に目を閉じた後、ウィルは耳に聞こえてくる騒々しい声に苦笑した。
「……なーんてな」
 イヤホンのスイッチのみに触れていた指先を動かして、今度こそマイクのスイッチを入れる。
「あー、こちら研究室。今レーダーのスイッチを入れたから、何かあったらすぐに知らせる。特に今の所問題無いな? …了解。まあ、頑張ってくれ」


――――――― ◆ ―――――――


 空中に浮かぶ街の間を潜り抜けながら、クライツとレイラはさらに上空へと向かっていた。街の中を高速で飛ばす事は出来ない。時折宙返りや旋回を交えて、空に伸びる橋や家々を通り過ぎていく。途中、何台か他のペガサスとも擦れ違った。
「さて、そろそろこの辺りからかな……」
 浮かぶ建造物が目に付かなくなる程度の高度まで昇り、クライツのペガサスが停止する。同じように横に浮かんで停止したレイラを一度見やって、クライツは西の方を指差した。そこに広がっているのは、朝日を受けて橙色に輝いている遠い雲の峰々だ。所々が虹を帯びて光っている。
「……あの峰の何処かにいらっしゃるのですよね?」
 イヤホンから伝わってくるレイラの声に、クライツが頷く。
「きっとね。……とりあえずはあそこへ辿り着くのが先決。立ち入り許可は王宮から貰ってるんだし、お咎めは絶対無いでしょ」
「それでそこから上昇…加えて舞巫女様を探す……ですね?」
「そうそう、…出来るだけ早く見つけられれば良いけど………ここから一直線、西へ八十里。すっ飛ばすわよ。…って訳で、レイラ、そろそろいつもの奴お願いね」
 イヤホンとマイクを通しての作戦確認を終え、レイラは腰から抜いた杖を構えた。今まで杖の代わりに握っていた右のハンドルが、ワイヤーに引かれて機面へ戻る。僅かに揺れる機体の上で、左のハンドルだけで絶妙にバランスを取りながら、レイラの唇が呪文を紡いだ。
「……“我らの父なる天空の御手よ 今この時 我らの翼と成り盾と成り 風を呼び 光を呼び 風の刃と光の拒絶から か弱き我らを護り給え”」
 レイラと、静かに見守るクライツとを取り囲むように、蒼い光が踊る。一瞬翼の様に広がった光が、
「―――“ディヴァイナリー( divinely )”!」
 高らかな、呪文の最後の言葉を受けて弾けた。そして、一つに集まり始める。首元に降りてくるその光は、神の加護の光だ。そっと触れて確かめてから、クライツは勢い良くハンドルを引いた。
「…ウィル! 聴こえてるでしょ? これからゼロ地点目指して突っ込むから! 何かあったら宜しく! ……レイラ、行くよ!」
 回るように高くなっていく起動音に負けないように、マイクに向かって声を張り上げる。首だけを巡らせると、レイラがOKのサインを出しているのが見えた。クライツの顔に、楽しげな笑顔が浮かぶ。重心を勢い良く後ろに掛けて、クライツはハンドルの側面にあるボタンを押し込んだ。
 風に似た音が吹きぬける。
 クラウフィードとエンジンが全開になり、先程までの十数倍の速度でペガサスは空を駆け始めた。眼下の街並みが川の様に後ろへと流れていく。


――――――― ◆ ―――――――


 雲を幾つも突き抜け、高速飛行に入ってから何事も無く数十分の時を数えた後、クライツの指がゴーグルの横にあるボタンに触れた。次の瞬間、視界に自分達の周囲を描いた半透明の地図が浮かび上がる。ゴーグルの裏面に特殊な液晶が仕込んであるのだ。普段はウィルが研究室で自分達の周りをレーダーで見ているので必要無いのだが、この先は話が別になる。
「ウィルさん、周りには何もありませんか?」
 クライツよりも少し早く、その地図を展開させていたらしいレイラの声がイヤホンを通じて耳に届く。少し遅れて、それに対するウィルの返答。
『ああ、問題無い。今回は運が良い事に空賊や巨鳥の類も見えないし…いつも通り…あと二分程度か…それくらいでゼロ地点を通過出来るだろう。とりあえず通信は開きっぱなしにしておくから』
「分かったわ、宜しくね」
 二人に返して、今度はクライツが左のハンドルを離す。そして腰から抜いたのは細身の剣。右のハンドルを引いて軌道と重心を調節していると、ウィルの声が耳に響いた。
『ゼロ地点を通過するぞ!』
 顔を上げると、今までに受けてきた女王の無茶な依頼のおかげで、既に見慣れてしまった光景が飛び込んできた。見ただけなら唯の空と変わらない。だが、ゴーグル越しの視界には、映るのだ。それは、空に引かれた境界線。古来からの伝承に真実が含まれている事の証。遠い昔、世界は輪廻を正常に戻したが為に秩序が歪んでしまった。そして生じた正常と異常を線引きする為の薄い薄い結界を、人はゼロ地点、と呼ぶ。
「ほんと、どんな仕組みになってるのやら……」
 普通の人には通る事の出来ない壁を前にして、クライツは独り言を風に飛ばした。ぐんぐんと迫ってくるその光の壁を見据えて目を閉じる。

……ヒュンッ!

『ゼロ地点通過! ……ここから雲の峰までは大体三十里だな、二人とも頼むぞ! 俺のレーダーもいつも通りあんまり役に立たないからな!』
 ヴァヴィロンにある空中トンネルを抜けるような感覚の後、ウィルの声に二人が我を取り戻す。先程掛けた神の加護を強める魔法で、二人に光の結界は通用しない。だが、それでも多少の支障は避けきれないのだ。四肢がほんの少しだけ痺れている。
 あの壁を越えた先の、此処は現実とは違う世界。
 壁の向こうでは穏やかになびいていた雲が、こちらでは渦を巻きもくもくと湧き上がっている。少し油断すれば、こちらの乱れた気流に煽られて軌道からあっという間に外れてしまうだろう。しかも、もし運が悪ければ物好きの空賊団(その上、何らかの魔法使いが団にいるのは確定な強い奴ら)や、それと同じくらい厄介な色々な物に遭遇しかねない。
 まだ少し痺れの残る左手を振って、クライツは不適に微笑んだ。
「言われるまでも無いわ!」
 ぐっ、と右手のハンドルを勢い良く引いて機体を左に大きく傾ける。ほぼ同時に、甲高い剣戟音が風を切り裂いて響いた。
『クライツ!?』
 その音は、マイクにも入ってウィルの耳に届いたらしい。
 翼のある歪な何かが、クライツの視界を一瞬だけ掠める。だが、それはすぐに雲の下へと消え、重力に従い落下していった。
『加護外れがもういたのか!? 俺のレーダーには何も映らなかったぞ!』
「そりゃそうでしょ、ほんの小さい雑魚だったもの。心配しないで、あっという間に雲の海に落ちてったから」
 慌てたウィルの声にも動じず、右手を僅かに引きながら重心を後ろに移動させ、クライツは高度を上げた。下では、レイラが旋回しながら杖を構えているのが見える。イヤホンに、紡がれる呪文の響きが聞こえてきた。
「……“神の怒り 雷電の槍 裏切りの言ノ葉よ 天と神とに見放されし者よ 今この時 神よ我の杖を経て この者に時を経た制裁を”」
 乾いた静電気の様な音をマイクが拾う。この呪文が何の魔法かを悟ったクライツは、さらにスピードを上げて上昇に拍車を掛けた。レイラの近くに浮かぶ雲が所々電気を帯びて光る。バチン、という大きな音がイヤホンを通さなくても耳に突き刺さった。そして、
「――“エクレール( éclair ) ジャッジメント( judgment )”!」
 次の瞬間、視界が真っ白に染まる。


『…毎回思うが、本気で容赦無いな……』
 ウィルの声がイヤホンに届いた頃、ようやっと大気中から雷の余韻が消え始めた。ゴーグルのおかげで目は無事だが、大気中に静電気が残っているせいで髪が随分と酷い事になっている。クライツ以上に雷の近くにいたレイラは服まで浮き上がって落ち着くまで大変そうだ。もう慣れた、と言わんばかりの苦笑が届く。
「…そうしないと、帰れませんから」
「まあね、当たり前でしょ。堕とさなきゃこっちが堕ちちゃうもの」 
 遠い昔、それこそこの世界に輪廻が戻るよりずっと前から、この世界の大地は死んでしまっている、らしい。視界の下に広がる雲の海の底には、少なくとも記録の中では未だかつて誰も辿り着いた事が無い。分厚い雲の層の中で、荒れ狂う雷と豪雨に打ち堕とされて死んでしまうのが関の山なのだ。それ故に、随分昔に人は大地を目指すのを諦めて空との共存を選んだ。この雲の下に何が在るのかは、だから、誰も知らない。
「知らない方が良い事も、あるのよね」
 改めてしみじみと呟く。この世界の命、…否、加護を持つ命は、最下層に当たる雲を通り抜ける事は出来ない。それに、重力にも空中ではさほど縛られない。だから、万が一街から落ちたとしても大抵は死なずに済むのだ。だが、何らかの原因で神に加護を取り消された者は、大抵は境界線の外へ追いやられ、落ちてしまえば、堕ちる。つまり、死ぬ以外に道は無いのだ。だから昔話や童謡では、大地イコール地獄の様に歌われる事もある。
 …死ぬ以外にもう一つ、加護を外された者に道が残されていない訳では無いが、結果的にはほぼ同じ――
「……クライツさんっ!」
 その時、不意に飛んだ鋭い声にクライツの思考は掻き消えた。何か考えるよりも先に体が行動する。ぐっと身体を屈めると、重心と共にペガサスが素早く急旋回した。髪を掠めて飛んでいった何かを目で追い、改めて左手の剣を握り直す。
「…は、こっち側では私が珍しく何か考えてても、絶対報われないのよね……レイラ、ありがとう! …キリが無いし、このままエンジン全開で峰まで飛んでくわよ!」
 強まってきた風にポニーテールを遊ばせながら、クライツの手がハンドルを引いた。遠心力に助けられて空中で円を描いた機体を、翼を持つ何かが掠める。が、次の瞬間クライツに叩き切られて落下していった。


――――――― ◆ ―――――――


「クライツ、進路が少し南に寄ってるぞ……ああ、もう大丈夫だ。そのまま直進……あと八里程度……うん?」
 レーダーを見つめて進路の指示をしていたウィルは、モニターの視界の端に浮かんだアイコンに眉を寄せた。臨時、または緊急のニュースが発せられた印の赤いランプアイコンが点滅している。厄介な知らせだったら許さないぞと内心で毒づきながら、空いている手がそのアイコンを展開した。
 モニターの中央に、ぱっとウィンドウが立ち上がる。レーダーの邪魔にならないようにと、そのウィンドウをモニターの端に動かそうとしていたウィルの指が、止まった。
「……嘘だろ?」
 凍りついた瞳が、大きな色文字で記された言葉を切れ切れに追っていく。

〝第五十二代 フィーリア=ラ=ヴァヴィロン現女王陛下 意識不明の重体 王立病院に急遽入院され 病の前兆見せず 未だ原因不明〟……

「………、…っ……まさかあいつ前持ってこうなるの知ってたんじゃないだろうな……!?」
 依頼に来た時の、何時に無く真剣で鋭い、しかし穏やかな目をしていた女王が脳裏を掠める。しかし、今更考えてもどうにもならない。マイクのスイッチには触れずに一度舌打ちをすると、ウィルはそのウィンドウを叩き消した。風に乗って、同じ知らせを受けた人々のざわめきが聞こえてくる。レーダーを確認するのに無理矢理意識を戻して、マイクのスイッチをゆっくりと入れる。
「…クライツ、レイラ、もう目的地は見えてるな?」
『うん、ばっちり。こんな近づくの初めてだけど、本当正直言って凄い光景よ。天辺が全然見えないもの。……舞巫女様を探すのは骨が折れそうね』
『積乱雲の異常発達なんでしょうか…ひとまず、周りに危険物はありません。乱気流が少し心配ですが』
 異常無し。その報告に安堵を覚えつつ、今の知らせを報告するのを先延ばしにする言い訳は消えてしまった。……知らせるなら後も先も変わらないだろう、と自分に言い聞かせて腹を括る。
「二人とも、落ち着いて聞いてくれ」
 イヤホン越しにも、二人の間の空気が緊張したのが分かった。自分を落ち着かせる為にも一つ深呼吸をして、ウィルが言葉を伝える。
「女王陛下がお倒れになった」
 空白。数秒の沈黙の間は、イヤホンからは風の音しか聞こえなかった。今自分はちゃんとマイクのスイッチを押していただろうか、とさすがに不安になったウィルが手元を見下ろした時――
『ど……どういう事なんですかウィルさんっ!』
『何ですってぇえ!?』
 ステレオで思いっきり絶叫され、一瞬だけ気絶した。どうやらしばらくの間、二人は言葉も出せずに固まっていたらしい。未だに耳鳴りのする耳をイヤホンの上から押さえて、ウィルがげっそりとした顔でため息をつく。
「知るか、こっちだって行き成り臨時で知らせが来たんだよ! 原因は不明だしどうなっているのかも全く分からない。今は意識不明で病院らしいが」
 また、空白が空く。しかし、次に電波が運んできた声は先程とは全く対照的な弱々しい声だった。
『嘘よ………フィーリア……嘘でしょ……』
 聞いた事もない、いつものクライツからは想像も出来ない萎れた声に、それを聞いたウィルの動きが止まる。しかし、次に耳に飛び込んできた声に、そんな違和感は吹っ飛んだ。
『…クライツさん、駄目! しっかりして下さい! ハンドルを絶対離さないで! こんな所で落ちたら私でも助けに行けるか分かりませんよ!?』
 モニターに映るレーダーの向こうに、衝撃の余り目を見開いて、倒れかけそうになっているクライツがはっきりと『見えた』。その姿に息を呑み、ぐっ、とウィルの手がマイクを関節が白くなるまで握り締める。

―― ……ありがとう…本当に嬉しいわ……それじゃあ…貴方達と私は…今日から、ずっと…おともだちでいられ

 自分達と同じ年頃の筈なのに、
 ずっと大人びていて寂しそうな瞳が本当に嬉しそうに輝いて、

「……クライツ!」
 脳裏に一瞬だけ弾けた、幼い頃の思い出を振り払う様にウィルはマイクに向けて声を張り上げた。
「もうお前は雲の峰の前にいるんだろう? 女王陛下は大至急と言ったんだ! へたれこむ前に依頼を完遂させてこい! ……“フィーリア”の最期の頼みかもしれないんだぞ!?」
『………ッ…!』
 息を呑む声。ああ、絶対帰ってきた時に叱られる、こんな発言。
 でも、それでも良かった。
『縁起…でもないわよこの大馬鹿がっ……!』
 イヤホン越しにでも、クライツの声が生気を取り戻したのが分かる。安堵の息を聞こえないように付くと、微かに聞こえていた風の唸りが大きくなった気がした。どうやらスピードをさらに上げたらしい。
「…行けるな?」
『帰ったら絶対に殴る……! 絶対逃げたら許さないから!』
 ブツン、という音が鼓膜を貫く。クライツがマイクを切った音だ。
 さすがにやり過ぎたか、と後ろめたくなった所にレイラの申し訳無さそうな声が聞こえてきた。
『…すいません、ウィルさん…あと……ありがとうございます。クライツさんなら多分もう大丈夫です。…これから雲の峰への突入を試みます』
「…了解。こっちもしばらくは切ってる。ここから先は俺に手伝える事はもうほどんど無いからな…峰の中にまで変な奴はさすがにいないだろ。……もし、何かあったら秒速で繋いでくれ」
 了解を確認して、自嘲気味の苦笑を浮かべながらウィルは席を立った。少しだけ休憩を入れるか、とコーヒーカップを持ち上げて――
「失礼します! 何方か! いや何方かじゃなくて! モルゲンロート様!元王室研究院、気象研究室所属のモルゲンロート様はいらっしゃいませんか! 同研究室に所属する者です! お願いです、助けて下さい私達ではもうどうしようも……!」
「……………」
 事務所の扉から、遠慮の無い激しいノックと共に聞こえてきた大声に、ウィルは目を半目にして今日は何かの厄日かと誰にも聞こえない様に吐き捨てた。決して顔を見せない様にしながらつかつかと扉に歩み寄り、その向こうにいるであろう誰かに思い切り拒絶の意志をぶつける。
「悪いがこちらもこちらで手一杯なんだ! それに俺の知識が今更役に立つとは思えない! それに俺はもう二度と研究院には戻らない! 自分達で解決してくれ! ……以上! 帰ってくれ!」
「いいえ…いいえ、帰りません! 街全体の命を見殺しには出来ません!」
「……何だと?」
必死で言い募る研究員の言葉の中に、聞き流せない言葉を捉えてウィルの眉が怪訝そうに寄せられた。その機会を逃すまいとばかり、研究員はますます大きな声を張り上げた。それも、…今以上に最悪な知らせを。
「気象台はもうパニックです…! 観測数値がメーターを振り切ってしまって予想の立て様もありません! …在り得ない! “東”から、カテゴリー7超のハリケーンが猛スピードでこちらへと向かっているんです…!」


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