それは現実でもなく物語でもなく。


 現実の境目と物語の境目に隠れているような、唯の夢の話。




 遅刻遅刻、遅れちゃうよ、小さな侑珠(ありす)。
 
 だぁれも居ないおんぼろバスは、不思議な世界への案内人。

 煉瓦造りの見知らぬ駅は、不思議な世界への落とし穴。



 遅刻遅刻、遅れちゃうよ、小さな侑珠。

 見たはずの誰かを追いかけて、星空の下のプラットホーム。


 ――よかったよかった、間に合ったね、小さなアリス。

 ほら、迎えに来たよ、僕らの夢幻鉄道が。









――そして次に目を開いた時、侑珠はその電車の中に座っていた。

「やぁ、こんばんは! 君は誰? 何処から来たの? 何処まで行くの?」
 ボックス席の真向かいに座る、タキシードを着た二匹の兎――の、白い方――が、楽しそうに笑いかけてきた。その横で、仏頂面をしたもう一匹の黒い兎が、窓枠に頬杖を付きながら、眺め回すように侑珠のことを見つめている。
 ガタンガタン。ガタンガタン。
 バスに似た、だけどバスよりは機械的で規則正しい音が鳴り響く。微かに伝わってくる振動が、今確かに自分が此処に居るという事を伝えていた。
 思考回路は過負荷で当然のように止まっている。焦点の飛んだ瞳に、かろうじて、不思議な程に柔らかいオレンジの光だけが届いていた。
「……無視かい? こっちから質問してるのに、失礼なヒトだね、君は」
 ふいに、黒い方の兎が不機嫌そうに口を開いた。金色チェーンのついた懐中時計が、黒兎の小さな指を支点にくるくると丸い軌道を描く。しゃらりと鳴るその音に急かされるように、侑珠の喉がようやっと声を取り戻した。
「…………なん、で……喋って……」
 ぴくり、と黒い耳が動く。また何か言われるかと思ったが、黒い兎は小さな溜息を一つ紡いだだけで、淡々と声を続けた。
「僕は僕だからさ。それ以上でもそれ以下でも無い」
「そうそう! あれ、じゃあ僕の質問可笑しいかな? ま、良いや。えーとね、僕はルイス、こっちの黒いのはキャロルだよ! 短い間だけど宜しくっ」
 記憶の何処かにデジャヴを感じながらも、それは何かに遮られて浮かんでこなかった。混乱でぼんやりする頭を振って、何とか話を繋げる。
「…わたし……私は、侑珠」
「アリス! 良い名前だね」
 赤い目がきゅっと細くなる。一緒に手も握られて、ふわふわとした不思議な感触は、なんだか手袋をはめた時に似ていた。だけど、人間の手よりも少しだけ暖かい。確かな温もりに、アリスの表情が少し柔らかくなる。
「………あの……此処が何処だか知ってる?」
 アリスは辺りを見回しながらおずおずと口を開いた。木で作られた車体に、ソファのようにふかふかな、臙脂色の四人がけの座席。座席の脇には、ほんわりとしたランプがついて、通路の橙(オレンジ)がかった灯りと一緒に車内を照らしていた。窓の外を、見慣れない風景が音もなく流れていく。
「此処? 此処は此処だよ。ね、キャロル」
「――ああ。……一応、『夢幻鉄道』という名称で呼ばれてはいるけれど。それにしても、どうしてそんなことを聞く?」
 鼻をひくつかせながら、キャロルが首を傾げた。
「私……、さっきまでバスに乗ってて、それで、道が聞きたくて運転手さんを追いかけて、…た、はずなんだけど、……いつの間にか此処に…」
「良いじゃないかそんなこと、どうだって。この世界は全て夢なんだから、車窓の風景でも楽しみたまえよ」
「………夢? ……夢って、どういう――」
「見て! 月見草の花畑だ!」
 アリスの問いかけは、子供のように歓声を上げたルイスに掻き消されてキャロルには届かなかったらしい。窓が乱暴に引き上げられる音に思わず視線を向けると、其処には地平線一杯に満開の月の光が広がっていた。満ちた月光に照らされ、蒼く影に光る緑の葉と対照的に、白と黄の花弁(はなびら)がきらりきらりと星のような光を灯している。
「月見草………あれが?」
「ここいらの月見草は、満月の晩に一番輝くんだよ。ほら、あそこ!」
 窓から身を乗り出したルイスが、ふいと何処かを指差した。
 見ると、ちょうど満月の真下になっているその場所では、いくつかの小さな人影が輪になって楽しそうにステップを踏んでいた。花畑の合間から、月明かりに照らされた何かの頭やドレスの裾が見え隠れしている。踊っている、と言うよりは輪になって追いかけっこをしているようだ。
「アリス、耳を澄ませてみて。もうすぐ風向きが変わるよ」
 内緒話をする時の表情で、ルイスが笑った。
 ふわり、と、アリスの耳元の髪を揺らしながら、夜の風が列車の中へ吹き込んでくる。その風に乗って、微かな歌声が聞こえてきた。

満月のお祭り 新月のお祭り
(だぁれもいない だぁれもいない)

嬉やな 嬉やな
(みんなしかいない 私がいない)

踊り明かそうじゃあないか
(お日様の下で 私は一人)

この涙が乾くまで
(お月様の下でも 私は一人)

「ドードーたちも良く飽きないね。あんな途方もないレース・ダンスなんてさ」
「そう? 僕はいつもすっごく楽しそうに見えるけどな」
 高い声。低い声。不思議に重ね合わさった歌詞とメロディは、まるで真逆のもので。アリスが首を傾げると、キャロルが呟くように――アリスだけに聞こえるように――言った。
「月見草が歌ってるんだ。だけどね、ドードーたちは自分の歌声に酔っ払ってるから、彼女たちの微かな声なんて聞こえやしないんだよ。あーあ、またあんなに踏まれてる」
「え――」
「ルイス、寒いよ。…そろそろ窓閉めて」
「ええーっ、もう、寒がりなんだからなぁ、キャロルはー」
 アリスが何か言うよりも早く、ぴしゃん、と歌声と風は閉ざされた。
 名残惜しそうに、鼻まで窓にくっつけたルイスが溜息を付く。後ろへと去っていく月見草の中に、見たこともない鳥の頭が見えた気がした。





「――さあ、あとちょっとしたらいよいよトンネルだ!」
 窓の外に真っ暗な草原ばかりが続くようになってから、ようやくルイスが窓から顔を離した。薄く曇った窓ガラスに、手の平と鼻の痕がくっきりと残っている。思わずアリスは小さく笑ってしまった。
「あれれ、アリス、どうかした?」
「…ううん。鼻、冷たくないの?」
「花が何だって?」
 首を傾げたルイスに、なんでもないの、と首を振ってから、アリスはキャロルへと視線を向けた。
「ねえ、トンネルに入るの?」
「そう。長い長いトンネルだ。今の内に外の世界を堪能しておくといい」
 真っ白なハンケチで懐中時計やら眼鏡やらを磨きながら、キャロルがにこりともせずに笑った。それにしても、と言葉を続ける。
「随分馴染むのが早いね。今までにも何人か、君みたいな迷子には会ったけど、大抵の人はもっと錯乱していたよ」
「……だって、夢なんでしょう?」
 新たな事実に、少しだけ驚きを覚えながらも、アリスは肩を竦めて小さく笑ってみせた。教えてくれたのはキャロルだって言うのに、変な質問だ。
「夢なら何でも有りかって思って。自覚のある夢、って、私見れたの初めてだし、どうせだから貴方の言うとおり堪能することにしたの」
「…そう」
 言いながら、ふぅ、とキャロルが懐中時計に息を吹きかける。溜息のような返事に違和感を覚える前に、ルイスが目を輝かせて立ち上がった。
「ねえ、ねえ、アリス! それならさ、トンネルに入るまでまだ少し時間があるし、列車の中を探検しに行こうよ! この列車、色々変てこで本当に面白いんだっ」
 ぴょん、と軽やかに座席から飛び降り、待ちきれないと言わんばかりにルイスがステップを踏む。いってらっしゃい、と右手をひらひらと振るキャロルにも後押しされて、アリスもそっと席から立ち上がった。歩くのは少し危ないんじゃないかという不安もあったが、立ち上がって三歩歩いて、その不安は掻き消えた。
「凄い、この列車。小さな揺れはずっとあるのに、全然歩きにくく無い」
「うん、そう! いきなり急ブレーキ、とか、揺れた拍子にずっこけるとか、そういうのは絶対無いから安心してて良いよ」
 とことこと付いてきたルイスが、誇らしげに笑う。スキップでそのままアリスを追い抜くと、楽しそうに左右の座席を覗き見たり、座席横のランプを眺めたり、夢中で探検に勤しんでいる。アリスもきょろきょろと辺りを見回して、ふと、今更ながら違和感に気づいた。
「……誰もいないね」
「いつもこんな感じだよ。真ん中の方まで行けば、多分もうちょっと乗ってると思うけど」
 そんなものだろうか。
 とりあえず生返事を返した後、ふと、アリスは通路の真ん中で膝を折った。座席横に付いているランプが、柔らかい光を放つ。よく見てみると、凄いことに、座席のランプの装飾はそれぞれ一つ一つ別のものだった。
 百合(ゆり)の花や薔薇(ばら)の花、蒲公英(たんぽぽ)の花、桜の花、他にも名前を知らない沢山の花が、橙色に浮かび上がっている。隣の座席、さらにそのまた隣へと足を動かしながら、ランプの中の花畑を追いかける。
「アリス、アリス、ねえ、隣の車両に行ってみようよ」
 名前を呼ばれるまで、アリスは足の痺れにも気づかなかった。
 慌てて立ち上がり、扉の向こうへスキップしていくルイスを追いかける。
 隣の車両へと続く木製の扉には、三日月を象ったような、不思議な形の金色の取っ手が付いていた。何も考えずに握って、その繊細な感触にアリスは思わず手を離した。三日月の淵を彩るように、此処にも細かい花飾りが刻まれている。しかも、その飾りの中で目立たないように光っているのは多分月長石とダイヤモンドだ。
 ――感嘆の溜息を、一つ。どれだけ不思議なんだろう、この列車は。
「待って、ルイ――」
 三日月を壊してしまわないように気をつけながら、扉を開く。
「ス―― ……?」
 ざあざあと響く水音に、アリスの言葉の最後は掻き消されて消えていった。
 壁に付いたオレンジの灯りに、車内に置かれた幾つかの長いテーブル。白いテーブルクロスの上に、沢山の料理と火の消えた蝋燭が並んでいる。食堂車だ、というところまでは分かったが、その先は訳が分からなかった。
「ん、あれ、お客さんかな? お客さん、お客さん、こっちにおいでよ! あいつの席に座っちゃって良いから!」
 雨の音の向こうから聞こえた声に、アリスは思わず後ろと左右を見回した。誰も居ない。つまり、呼ばれているのは自分?
「そう、そう、君だよ! そんな所に立ってないで、こっちにおいでよ!」
 真っ黒な傘を差して、小さなシルクハットを被った少年が、大声を上げながら長いテーブルの向こうからひらひらと手招きをしている。その隣の通路で、透明なレースの傘を差した兎が――茶色いからルイスじゃない――それはそれは楽しそうに跳ね回っていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、だって、――濡れちゃうじゃない!」
 雨音に負けないよう、アリスも口の横に手を添えて叫び返した。夢だ、と分かっていても、こんな――列車の中に雨が降っているなんて!
 アリスのいる所は、まだ普通の列車と何も変わらない。が、アリスから一歩前へ歩いた所から、列車の天井が完璧にぶち壊されていた。そこから、外で降っている雨が遮る物無しに降ってきているらしい。
「えー、しょうがないなぁ……なあ、お前、迎えに行ってやってよ」
 ぴょこん、とレースの傘が揺れる。ぱしゃぱしゃと小さな足跡を立てて、茶色い兎が小走りでアリスの所へやってきた。ルイスとキャロルよりも、一回りか二回り大きいだろうか。
「あげる」
 にこお、と不思議な笑顔を浮かべた兎が傘を差し出した。傘に守られなくなった毛並みが、あっという間にびしょ濡れになる。
「え、でも――」
「あげるっ」
 兎と傘とを交互に見比べているアリスに、傘を押し付けるようにして、兎は走って雨の中へ戻っていってしまった。傘を手におろおろしているアリスを見かねた少年が、軽い笑い声を上げてもう一度手招きをする。
「こいつなら濡れるのに慣れてるから大丈夫だよ、お客さん! 良いから良いから!」
「……そんなこと言われても」
 そもそもそれに、ルイスは何処へ行ったんだろう。しばらく、きょろきょろと辺りを見回して、アリスは溜息を付いた。此処に立っていてもしょうがない。緩めていた傘を、もう一度ぱんと開いて、歩き出す。
 不思議な風景を眺めながらテーブルの間を歩く。一応、ちゃんと料理には透明な硝子カバーが掛けられているらしい。逆に剥き出しの料理はどれも濡れても大丈夫なものばかり、果物の皿も随分多いみたいだ。
 ふいに、小さく聞こえた水音に視線を前に戻すと、さっきの兎が足元で微笑みながら首を傾げていた。
「聞こえる?」
「…え……何のこと?」
「雨のうた」
 軽やかに、歌うように兎が言った。そして、つい、と頭の上を指差す。アリスも上も見上げると、そこにあったのは傘の天井だった。それと、ぱらぱらという雨の音。これのことか、と思い当たってアリスが頷く。
「何て聞こえる?」
 続けて尋ねられて、アリスは少しだけ首を傾げた。……不思議な兎だ。とりあえず耳を澄ませてみるが、いつもの耳慣れた雨音と何も変わらない。
 傘の表面に、水が落ちて弾ける音。ぱらぱらとも、ぽつぽつとも聞こえるが、それだけだ。
「えーと……。……ぱらぱら…みたいな感じ…かな」
「そっか。それが君の雨のうたなんだね」
 うっとりと目を閉じて、兎が耳をそよがせる。
「ぼくには、ぷちぷち、ぷちんって聞こえるんだ。スミレの花の種が弾ける時みたいに」 
 一通り聞いて満足したのか、ぴょん、と兎は身を翻(ひるがえ)して少年の元へ駆けて行った。黒い傘を抱いた少年が笑う。
「こいつは耳が良すぎなんだよ。ねえお客さん、こんな良い雨の日なんだから、たまには傘とダンスでもしてあげたら?」
「まさか、子供じゃあるまいし」
 長靴を履いて傘を振り回していた頃を思い出して、アリスは苦笑した。くるり、と控えめに一度だけ傘を回して、少年の隣の席へ腰を降ろす。椅子は、テーブルの下へ入っていたのもあって、この雨の中でも座るのは問題無さそうだった。
「――そうだ、忘れてた。ねえ、貴方、ルイスっていう白兎を見なかった?タキシードを来てて、此処へ入って行ったと思ったんだけど…」
「白兎? いんや、俺は兎ならこいつしか知らないよ。お客さん、迷子になっちゃったんじゃないの?」
 けらけらと楽しそうに笑いながら、少年が次々とカップに紅茶を注ぐ。その内の一つを少年は一口で飲み干すと、アリスの前にある花柄のティーカップにも紅茶を贈った。ぽとん、と角砂糖を一つ落として、アリスへ差し出す。幾つかの雨の波紋が、紅茶の水面に浮かんで消えた。
「まあ、一息ついて落ち着きなよ。雨見でもしながらさ」
「…ありがとう」
 少し複雑な気分になったが、気にしないことにした。ほんのり甘い紅茶を飲みながら、アリスは改めて隣の少年を見つめる。ハシバミ色の目に金色の髪。…それとシルクハット。美味しそうに目を細めて、少年は次々とティーカップを空にしていく。熱くないのかと気になったが、この雨でちょうど良い具合に冷まされているのかもしれない。
「ねえ、ところでお客さんの名前は?」
 最後のカップを飲み干して、くるりと少年がアリスを向き直った。少年の、トパーズのようなヘーゼルアイに見つめられて、一瞬、アリスはその目から視線を逸らせなくなった。咳払いをして、何とか視線を少し右へとずらす。
「えーと、…アリスで良いわ。貴方は?」
「俺も帽子屋(ハッター)で良いよ。みんなそう呼ぶから――いかれ帽子屋(マッドハッター)とか言う奴もいるけどね。ひっどいよなぁ、マッドなんてさぁ」
 自嘲するように笑う姿は、まるで酒を片手に愚痴る何処かの誰かを見ているようだった。もう一杯、ハッターが自棄のように紅茶を注ぐ。角砂糖をどさどさと投入しながら、思い出したようにハッターはティースプーンで兎を指差した。
「ちなみにあっちの兎はまだ名無し。でも頭の中が年中三月だから、アリス、気をつけろよ」
 雨の中を跳ね回っていた兎が、なに? と言うように立ち止まって首を傾げる。何でも、とハッターが手を払うと、すぐに自分の世界へ帰っていった。水を跳ね上げながら、色んな方向へ耳をそよがせている。
「あいつの恋人は雨なのさ。でも、まあ、雨の中のお茶会ってのもなかなかオツで良いもんだろ?」
 雨に濡れて、オレンジの灯りに微かに光る苺を口に運びながらハッターが言う。アリスもそれには同意して、小さく頷いた。所々は台無しだが、灯りを反射して光る水滴は確かにとても綺麗だ。雨音も、案外背景音楽には向いているかもしれない。
「ずっと雨、永遠に雨、世界中が雨、毎日が雨なら良いのにさ」
 ふいに、ハッターが歌うように言葉を口ずさんだ。視線を向けたアリスに目を向けないまま、歌い続ける。跳ね回りながら、兎もそれに重ねるようにして歌い始める。

Rain Rain Rain

晴れの裏に雨

ずっとずっと雨が降り続けたら

正気は狂気に 狂気は正気に

沈め沈め ノアの箱舟

否定された世界は いつも海の底

 歌というよりは、詩を暗唱しているかのようなそれに、アリスは寒気を覚えて肩を抱いた。冷たい歌なのに、ハッターも兎もそれはそれは楽しそうな笑顔を浮かべて、冷たい言葉を詠っていく。楽しくて仕方が無い、と言うように兎は歌いながら宙返りまで披露した。
「……――アリス――――アリス――……!」
「…ルイス?」
 思わず耳を塞ぎかけた瞬間、雨の奥から聞き覚えのある声が聞こえてきた。ルイスの声だ。しばらく迷った後、アリスはそっと席から立ち上がった。ちらりと横の二人を見やったものの、歌っている二人は気が付かないらしい。レースの傘を、音を立てずに席に差し掛ける。
「…紅茶、ありがとう。ごちそうさま」
 それだけ早口で囁いて、アリスは雨の中へ声を追って駆け出した。入って来たのとは反対側、二人の歌うテーブルのさらに奥の扉。その奥から聞こえる、微かな声だけが頼りだ。あっという間にびしょ濡れになりながら、アリスは小さくくしゃみをして目元を押さえた。





「どーしたのさアリス、びしょ濡れじゃない!」
「ちょっと…色々あって。……待って、ルイスはあそこ通らなかったの?」
 アリスがスカートの裾を絞ると、ぽたぽたと床に雫が落ちた。
 雨の車両の隣で、これっぽっちも濡れていないルイスは、飛び込んできたアリスに、飛び上がって驚いて座席から転げ落ちていた。汚れてしまったタキシードを慌てて叩いて、思い出したように胸ポケットからハンカチを取り出してアリスに差し出す。
「僕は扉を通っただけだよ。なのに、アリスってば全然こっちに来ないし、どうしたのかなって思ってたら――凄いや、さすが夢幻鉄道だね!」
 遊園地か何かではしゃぐ子供のようなルイスに、アリスはこっそり溜息を付く。そんなに楽しいものじゃなかったと思うのだが。
「それで、アリス。急かすみたいで悪いんだけど、もうすぐこの列車トンネルに入っちゃうよ。そろそろキャロルのとこに帰んなきゃ」
「………」
 受け取ったハンカチで、せめてもの慰めで顔周りを拭いていたアリスは、じと、と半目でルイスを睨んだ。息くらい付かせてよ、と目で訴えると、抗議を解読したらしいルイスが少しだけ小さくなって肩を竦める。
「大丈夫、大丈夫、それくらい歩いてれば乾くって。キャロルのとこへ帰る頃には元通りだよ。どうせなら走ってこうか?」
「冗談! また私だけあの雨の車両に迷い込んだらどうすれば良いの? 私たちの席、雨の車両の向こうじゃない。引き返さなきゃいけないんだし」
「え? 違うよ、僕らの車両は此処からもっと先だよ」
 え、と同じようにアリスの言葉が詰まる。ルイスが指差すのは、アリスが入ってきた扉ではなく、反対側の扉だった。アリスの記憶さえ確かなら、そんなの、元いた席からもっと遠ざかることになる。訝しげな表情を浮かべるアリスに、ルイスはじれったそうにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「もう、アリス、あっちなんだってば! 絶対そうだから! 僕、先にキャロルのとこ行くからねっ」
 とん、と一際大きく飛んだと思ったら、アリスが呼び止める間もなく、ルイスはあっという間に奥の扉へ向かって走っていってしまった。口の中だけで文句を言って、アリスも慌ててその後を追いかける。絶対に方向を間違えていると思ってはいたが、もう迷子になるよりも、一人で取り残されることの方が怖かった。
「待ってよ、ルイス――!」
 開いた扉の向こうへ消えたルイスを追って、同じようなボックス席の間を走り抜ける。ぱたぱたと水滴交じりの足音が響いた。今度はルイスも急いでいたのか、開けっ放しになっている扉をアリスは一気に走りぬけた。
 もう一つ、同じような車両を走り抜ける。そしてまたもう一つ、同じような車両。視線の奥で、ルイスが走り抜けて行ったのか、見慣れた扉が音を立てて閉まった。溜息を付いて、アリスはまた走り出す。
 走りながら、アリスは辺りをきょろきょろと見回した。さっきまでの車両もそうだが、この車両もやっぱり誰も乗っていない。そして、ふと、真っ暗な窓ガラスに目が留まった。
「……あ、れ…?」
 窓ガラスには、何の雨の跡も残っていない。その時になって、アリスは自分がもう何処も濡れていないのに気づいた。驚いて髪や服に手を触れてみるが、何も無かったかのように全くいつもどおりのままだ。
「…夢の中」
 だから?
 ひとしきり首を捻った後、無理やり結論付けてアリスはまた走り出した。辿り着いた扉を開き、また次の車両へ走りこもうと――
「やあ、おかえり」
「アリス、おかえりー! へっへー、追いかけっこは僕の勝ちだよ!」
 座席に座った二匹の兎が、何も変わらずに其処に座っていた。あっけに取られて立ち尽くすアリスを見て、キャロルが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんだい、アリス? 早く座りたまえよ」
「……え、あ……うん」
 納得がいかないながらも、アリスは元の席へすとんと腰を降ろした。置いてきた学生鞄もそのままちゃんとあるから、元の座席なことは間違いない。……が、記憶が確かなら、自分達が出て行ったのは今入って来た扉の反対の扉ではなかったか?
「アリスってば変な顔ー。ねえ、ほら、もうすぐだよ」
 そわそわと辺りを見回しながらルイスが言う。その言葉に、ふいとキャロルも珍しく顔を上げた。トンネルと言ったって、外が夜な今、入ったって入らなくたって対して変わりは無いんじゃないか――そうぼんやり想っていたアリスは、ごおっ、と頭の上を何かが通り過ぎていく音に思い切り現実に引き戻された。
「な、………っ!?」
「うわ――っ、やっぱり凄い凄いすごーいっ!」
 全力で窓に張り付いたルイスの向こうに、蒼く光る鍾乳洞(トンネル)が広がっていた。アリスの知るトンネルは、唯の真っ暗な何もない空間だったが、このトンネルはまるでそれとは正反対だった。広い広い地下空間が広がり、鍾乳石のツララがあちらこちらにオーロラのように垂れ下がっている。しかも、鉱石か苔の一種なのか、鍾乳洞の壁はまるで明るすぎる星空のように光っていて、遠くまで何の苦労もなく見渡すことが出来た。所々一際眩しく光っているのは、天の川か星雲だろうか。写真でしか見たことのない、渦を巻いた銀河のような光もある。
「アリス、見てみて、ほら! 下、下、僕らの姿が映ってるよ!」 
 ルイスの、興奮しきった声がアリスを呼ぶ。窓に顔をくっつけてみて、アリスはまたもう一つ息を飲んだ。怖いくらい透明の地底湖が、ずっと下の方に延々と広がっている。水面には、星空の壁と一緒に、確かにこの列車とその窓の中の自分たちがくっきりと映って揺らめいている。鍾乳石の細い石橋の上を、この線路は走っているのだ!
「……此処……地面の中、なんだよね……?」
 呆然と呟いたアリスに、キャロルが少しだけ微笑みながら頷いた。無理も無い、と口の動きだけがそう告げる。その隣で、ルイスが窓枠に頬を押し付けながら、うっとりとその世界に見惚れていた。
 地底湖に、鍾乳洞の星空が移りこんでいるおかげで、まるで宇宙の中を走っているような錯覚に陥る。探せば、知っている星座だって見つけられそうだ。それくらい、――リアルな幻想。
「……銀河鉄道」
 記憶の何処かから、ぽつりと、言葉が零れた。





 カタンカタン
 カタンカタン

 静かな揺り篭の子守唄が響く中で、アリスはふっと目を覚ました。外の風景に見惚れている内に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「やっと目が覚めた?」
 窓の桟の跡が残る頬を擦(さす)っていると、囁くようなキャロルの声が聞こえた。顔を向けると、小さな本を広げたキャロルがじっとアリスを見つめていた。ルイスは、ちゃっかりキャロルに寄り掛かって気持ち良さそうに眠っている。
「うん。……凄い、ね」
「まあね。僕もこの風景はとても好きだよ」
 ゆっくりページを捲りながら、キャロルが呟く。
「どうせこの車両は僕たちの貸切だ。……ランプを消してみる?」
「…っ、……あ、でも、本――」
 一瞬、ぱっと顔を輝かせたアリスは慌てて声を飲み込んだ。灯りを落としたら、さすがに車両の中は真っ暗になるだろう。外はもっと綺麗に見えるだろうが、それでも――
「大丈夫。読めるから。…通路の扉の側にスイッチがある」
 僕は動けないから、とキャロルはちらりとルイスに視線を向けた。良い夢でも見ているのか、幸せそうに寝息を立てているルイスを見て、アリスも苦笑する。確かにこれじゃ、起こしてしまうのが可哀想だ。
 静かに立ち上がると、アリスは通路脇のスイッチをそっと降ろした。乾いた音の後、オレンジの光がゆっくり消えていく。
「…うわぁ………」
 そして、入れ替わりのように、ぼう、と青白い光が世界を照らし出した。両脇の窓から、鍾乳洞の星灯りが控えめに差し込んで、不思議な形の影を創り出す。真っ暗闇になるなんて、そんなアリスの心配は本当に杞憂に過ぎなかった。車内の姿も、自分の爪先もキャロルの表情も、蒼い光の中でくっきりと浮かび上がって見える。
「だから言っただろう?」
 ふらふらと席に戻ってきたアリスを見て、キャロルはくすりと笑った。
「ルイスがこの瞬間を見られなかったことを知ったら悔しがるだろうね。やっぱり起こしてあげれば良かったかな」
 窓の外の鍾乳洞は、さっきまでとは比べ物にならないくらい眩しい光を放っていた。だけど決して昼間のように世界を照らすのではなく、あくまで主役は暗闇として、それさえを彩るように蒼い光を灯す。深く息を吐き出して、アリスは窓にこつんと額を押し付けた。
「この列車の中、海の底みたいだった」
「そう。……ああ、言われてみれば、似ているかな」
 かたんかたん、と小さなリズムを刻みながら列車は鍾乳洞の中を走っていく。窓の外を、一続きの広すぎる星空が流れていく。うっかりすると、走っているのはこの列車で、星空は何も動いていないということを、忘れてしまいそうだった。止まった列車の窓の外を、星空が流れていくような、そんな不思議な夢を見ている気分になる。
 ひらひらと、蝙蝠の代わりに蒼い蝶の群れが窓の外を通り過ぎていった。





「――ねえ、この列車は途中では止まらないの?」
 長い静寂が続いた後、ふいに、アリスがそっと口を開いた。もうどれくらいこの世界を走り続けているのか、アリスには分からなかった。胸ポケットに入っているはずの懐中時計が、気が付いたら無くなっていたのだ。また一つページを捲ったキャロルが、不思議そうに首を傾げる。
「止まりたいの?」
「ん……。この洞窟を近くで見てみたいなって、思ったのも、あるけど。そういえば乗った時から一回も止まってないなぁって」
 窓を開けるのは、なんだか憚(はばか)られて。窓ガラスに両手を添えながら、アリスは息を吐いた。ふぅっと窓ガラスに白い花が咲いて、すぐに掻き消える。鍾乳洞の中は、きっと凄く寒いんだろう。太陽の光が届かない、永遠の夜の世界なのだから。
「本当に長いトンネルなんだね」
「だから言っただろう?」
 ぱらり、と古い紙を捲る音が響く。また窓の外の光景に浸ろうとしていたアリスは、ふと、思いついたようにキャロルを振り返った。
「ねえ、キャロル。気になってたんだけど――それ、何を読んでるの?」
「………え? ああ…」
 茶色い皮表紙を張ったその本を、キャロルは初めて見るようにしげしげと眺めて、二言三言何かを呟いた。一度ゆっくり瞬きをして、――ふいに、口元にうっすらと微笑みを浮かべてみせる。
「――追いかけっこの話」
「…なにそれ?」
「この言い方が一番相応(ふさわ)しいと思って。一言で一冊の本を表せなんて、君も無茶な質問をするね」
 やれやれ、と言うようにキャロルが肩を竦める。何となく上手く誤魔化された気がしたが、アリスもそれ以上突っ込むのはやめておいた。…迷惑だと煙たがられるだけだろう、多分。
 キャロルもそんなアリスの思考は重々承知しているのか、ふい、と先にアリスから目を逸らした。何も聞かれなかったかのように、また一枚ページを捲る。
「……ほら、次の章だよ」
「―――?」
 キャロルの言葉に被せて、涼しい水の音がアリスの耳に聞こえた。何処かで聞いたことのある、懐かしい音――一瞬の後、すぐに分かった。雨上がりの水溜りの道を、自転車で一気に走り抜けていく時の音だ。水を割り、波と波紋を作る音――
「……うわぁ…」
 何度目かの感嘆の声が、零れる。あんなに低い位置にあった地底湖が、いつの間にか目の高さにあった。水位が上がった訳じゃない。線路が、湖の水面を走っているのだ。列車の作る波紋が、湖にそっと広がっていく。
「ルイス、起きて、起きて」
「ん……、………?」
 キャロルに揺り起こされて、ルイスがぼんやりと瞳を開いた。そのまましばらくぼうっと瞬きを繰り返していたが――窓の外に顔を向けたとたん、目を見開いて跳ね起きた。
「女王様……女神様だ――!」
「じょうお……女神様?」
 ルイスの視線を辿った先に、何かが浮かんでいる。じっと目を凝らして、アリスは、愕然とした。
 見つけたのは、水の中に閉じ込められた、女の人の姿。
 水面に、ゆらゆらと星色の髪だけが広がり、白いシフォンドレスを纏った身体は水の中に沈んで揺れている。透明度の高い地下水は、屈折しながらも、その女の人の表情までくっきりと世界に映し出していた。
「だれ……なに、あのひと……?」
「――………唯の馬鹿、だよ」
 溜息にしか聞こえない声が、アリスの呟きに答えた。
「此処の地下水は恐ろしいくらい冷たいんだ。人の冷たい感情の雫から出来ているからね」
 ぽたり、と鍾乳石から落ちる水滴の音が聞こえた気がした。
「そんなことしたって何の意味も無いのに、自分で理由を作って、自分で湖に入っていったんだ」
「――ちょっとキャロル、女王様のことそんな風に言わないでよ、もう!いっつもそう言うんだから!」
 むう、と頬を膨らませたルイスが窓から顔を離した。遠ざかっていく水面を、名残惜しそうにちらちらと盗み見ながら――ついでに一発、キャロルに軽い足蹴りの抗議を食らわせてから――ルイスは、アリスの瞳を正面から見据えた。そして、静かに口を開く。
「この湖はね、キャロルも言ってたけど、地上の人の冷たい気持ちが帰って来る場所なんだ。口から出られなくて、心の中に降り積もって、溢れちゃった冷たい想いが――人の身体と地面を通って、此処に降ってくるの。行き場の無い思いの、たった一つの行き場なんだ。みんなは、此処のことを嘆きの湖って呼んでる」
 それで、あのひとは。
 黙って頷いたアリスに、ルイスは言葉を続けた。風景の向こうに遠ざかっていく女王へ視線を逸らして、祈りを捧げるように呟く。
「そんな冷たい気持ちを、少しでも暖めてからこの星に帰してあげたいって言って、あの湖に入っていったの。誰もいないよりは、誰かがいた方が、きっとちょっとでも救いになるでしょうって言って」

 …大丈夫。あの中でも、私なら死ぬことはないわ。何故なら―――

「あの人はね、僕らの心(heart)の女王様なんだよ」
 最後まで、女王の姿を目に焼き付けようとするように、ルイスは窓の外から視線を離そうとしない。
 とっさに言葉を返せず、アリスは同じように外を見つめた。水の中の女王は、もう随分遠のいて小さな花くらいにしか見えない。酷く悲しいものを見てしまったような気分になって、アリスはそっと視線を外した。
「…生きてる、の……?」
「女王は死なないよ。でも、眠ってる。深く深く眠ってる。……やっぱり馬鹿だよ、あの人は」
「もう、女神様みたいって言ってよ、キャロル。意地っ張りなんだから!」
 珍しく溜息を付いたルイスが、そっと顔の前で両手を組み合わせた。消えていく女王に向かって、静かに頭を垂れる。
「……ありがとう、女王様」





 嘆きの湖を過ぎると、線路は――正確には、線路を支えている石の柱が――また少しずつ上へ上がり始めた。かたんことん、と耳慣れた音だけが延々と続く。外は相変わらずの星空で、流石にアリスが退屈を覚え始めた頃――ふいに、キャロルが読んでいた本をぱたんと閉じた。
 微かな驚きに顔を上げたアリスに、キャロルが少しだけ笑みを浮かべる。
「アリス」
 初めて名前を呼ばれた。
 今度こそ驚いて、アリスは小さく息を飲む。
「もうすぐセントラル・クロスだ」
 そんなアリスには全くお構いなしで、キャロルが静かに席から立ち上がった。静かな目でアリスを見つめて、誘うように首を傾げる。
「見に行ってみないかい?」
「―――え――」
「良いだろ? ルイス」
「もちろんっ」
 にぱ、と満面の笑顔を浮かべたルイスが立ち上がる。通路まで一息に飛び跳ねると、その隣にキャロルも並んだ。二匹の、やけに静かな瞳に見つめられて、アリスも慌てて立ち上がる。
「ちょっと、待って――セントラル・クロスって何? 何処まで行くの?」
「……来れば分かるよ。行こう」
「行こう、アリス!」
 スキップするように、二匹の兎が走り出す。気を逸らせば、あっという間に蒼い光の中に見失ってしまいそうで――言葉を飲み込み、アリスは扉に向かって走り出した。
 車内探検から戻ってきた時の扉を潜り抜ける。そこには、さっき通ったはずの橙色に照らされた車両の代わりに、蒼い星灯りに照らされた車両が静かに広がっていた。驚いている暇もなく、アリスは席の間を走り抜ける。
 今度の車両は不思議なことに、沢山の人や動物が席に座って、小さな囁きあいに花を咲かせていた。一瞬で通り過ぎた席に座っていたヤマネが、ふわりと笑って声だけをアリスへ向ける。
「やあ、おはよう。もうすぐだね。また後で。おやすみ」
「なんだ、もう寝てしまうのか。君はせっかちだな」
 その隣に芋虫がいた気がするから、小さく聞こえた声はきっと芋虫のものだ。
 何故か床に散らばっているトランプを飛び越えて、扉を開く。また、蒼い車両が広がっていた。
 もう先に行ってしまったのかと、アリスが視線を左右に走らせると――奥の扉の脇で、ルイスが手を振っていた。何かを言いかけて、扉の横に立つ小さな螺旋(らせん)階段(かいだん)を指差し、それを駆け上がっていく。
「ちょっ、ま…待ってってば! もうっ……」
 上がりかけた息を整えて、また走り出す。たかだか列車の一車両なのに、こんなに長く感じるのはどうしてだろう。
 何処か現実味の無い――当然か、これは夢なのだから――見慣れない服装の人達や、当然のように座っている動物達の間を走る。とは言えさすがに、オウムやアヒルに混じってドードーが座っていた時はアリスも一瞬足を止めた。ばっちりと目が合ってしまい、曖昧な愛想笑いを浮かべて、逃げるようにアリスはまた走り出す。
「知ってるか? あのお嬢ちゃんは今な、この列車よりも早く走っているんだぞ」
「へえ、そりゃ凄いね。何をそこまで急いでいるんだろう」
 ドードーの嘴の上の蜥蜴(とかげ)が、ドードーの囁きに目を丸くしていたことまではアリスは気づかなかった。
 ほとんど滑り込むようにして、アリスはやっと螺旋階段の支柱を掴んだ。たかだか二メートル少しの小さな階段だ。多分、屋根の上に繋がっているんだろう。
「……っ、ルイス、キャロル、二人ともいるの――っ?」
 荒い息を大きく吸い込んで、声を上げる。幾許(いくばく)も待たずに、上からルイスの声が降ってきた。
「いるよ――っ! 早くおいでよアリス、ちゃんと待ってるから!」
 一度列車の中を振り返った後、アリスは素朴な白木作りの階段に足を掛けた。蒼い光に沈んで細かい装飾はよく見えないが、感覚が手すりに細かい彫刻が彫られていることを伝えてきた。階段の一つ一つにも、きっと何か装飾がしてあるんだろう。
 とん、とん、と螺旋階段を登る。すぐ屋根に出るのかと思ったら、天井が随分厚い構造になっているらしい。数歩分の暗闇の後、ごつん、とアリスの頭に叩かれたような衝撃が走った。思わず手を伸ばすと、天井が微かに持ち上がるのが分かった。――出口だ。手探りで取っ手を掴み、思い切り押し上げる。
「……っ、寒……!」
 差し込んだ蒼い光と凍えるような冷気に、首を竦める。何とか最後の一段を登りきって顔を上げると、鍾乳洞一杯に星空が広がっていた。アリスの感嘆の声が、白い息になって掻き消える。
「ああ、やっと来たね」
「へへ、何だかんだ言ってアリスも走るの早いね!」
 後ろから聞こえた声に振り返ると、ルイスとキャロルがそれぞれ腰を降ろして空を見上げていた。列車のリズムに合わせて、長い耳がゆらゆらと揺れる。列車の上なのに、不思議なくらい風が吹いていなかった。
「見て、アリス。ほら、あれがセントラル・クロスだよ!」
 ルイスが、鍾乳洞の一箇所を指差した。
 星空のような鍾乳壁の中で、巨大な十字架の形に並んだ光が、一際眩しく輝いている。その透明な光は、神々しい、と言った方が近いかもしれない。
「……真ん中の(セントラル)、十字星(クロス)…」
 へたりこむように、アリスは二人の後ろに腰を降ろした。初めて見るはずなのに、知っているような不思議な概視感に囚われて、光の十字架から目が離せなくなる。
 遠くに見える列車の先頭は、真っ直ぐにこの十字架を目掛けて走っていた。星空が後ろへ流れる度に、十字架はますます大きくなってアリス達に迫ってくる。このまま見ていたら、なんだか列車ごと十字架と一つになれるような気がした。
 ルイスも、キャロルも、魅入られたようにアリスの前で十字星の光を見つめている。
 記憶の何処かで、あの光が呼んでいる。

 何処だろう。何処で見たんだろう。……私はこれを知っている。
 でも、何処で――

「ありす」

 静かな静かな屋根の上に、小さな女の子の声が響いた。
 のろのろと振り返ったアリスの視線の先で、小さな白猫がちょこんとお座りをしていた。蒼い光の中で、ぼんやりと白く浮かび上がった顔が、にっこりと笑みを浮かべる。
「もう、お帰り」
 大きく開いた瞳孔が、きらりと蛍の色に光った。鋭い氷のような光に、思わず後ずさりながらも、アリスはゆっくりと首を振る。
「なん、で―― ……」
「このままずっとココに居るの?」
 にぃ、と白猫の口が釣り上がった。今度こそ恐怖に身体を掴まれて、アリスはおろおろと視線を彷徨わせた。迷ったあげく、ルイスに手を伸ばそうとしたアリスを見て、白猫がけたけたと笑い始める。
「残念ね。私の声はありすにしか聞こえない。私の姿はありすにしか見えない。その兎さんたちには何も分からない」
 優雅な足取りでステップを踏むと、白猫はアリスの膝に前足を乗せた。ちりん、と小さな鈴の音が鳴る。身を硬くしたアリスの目を覗き込んで、白猫は口を開いた。
「私の今の名前はチェシャー。昔の名前はもう忘れたわ。貴方の今の名前はアリス。ねえ、ありす。貴方も忘れてしまうの?」
「え……」

良いのかな 良いのかな

こんな所にいて 良いのかな

現(うつつ)のアリスは、すやすや すやすや

なんて素敵な 良い夢を

ずっと ずっと

長く 永く このまま

このまま?

「ねえ侑珠。起きないの? この列車は、」
 蛍の光の向こうで、侑珠の中で、何かが光った。
 小さく喉を鳴らしながら、チェシャーが侑珠に顔を擦(こす)りつける。そして、前を見つめたまま時を止めている侑珠へ、そっと囁いた。

 もうお帰り、侑珠。
 貴方には、まだ早いから。

「―――あ」
 
 小さな声が、侑珠の喉から零れたとたん、ぐらり、と世界の輪郭が揺らいだ。地面が消えて、侑珠だけ、その暗い底へ落ちていく。最後に見た、空を覆うような十字星が、霞んで遠く消えていく。手を伸ばしても、取り戻した声で叫んでも、もう何にも届かなかった。
 何処までも、何処までも、星空の名残の中を落ちて、落ちて、落ちて、

 そして、世界は暗闇に閉ざされた。





「侑珠」

 心地良い揺れの止まった世界。真っ白な天井と、身体の下に感じるのは柔らかい温もり。眩しい光と涙の音。何故か忘れかけていた、声。

 ゆっくりと首を動かして、侑珠は笑った。

「……ただいま。不思議な夢だったよ」
 





「…そっか。帰っちゃったんだ、アリス。良い友達だったのにな」

 十字星のゲートを潜った先で、ルイスが少しだけ寂しそうに笑った。ゲートを潜る前と何一つ変わらない鍾乳洞の世界で、一つだけ違うこと――ルイスの小さな背中に、透明な翼がそっと揺れている。
「…本当は嬉しいくせに」
 同じように透明な翼を受け取ったキャロルが、星灯りの下で本のページを捲った。そのページを踏みつけて、ルイスがキャロルに頭突きを食らわそうとしたが――ひらりと空中に逃げられて、列車の屋根に頭をぶつける音だけが空しく響いた。そんな光景を見て、羽を生やしたチェシャーがくすくすと笑う。
「でも、そうよ。あの子はまだ早すぎたもの。生きていられる方が幸せに決まってるわ。ギリギリで帰せて本当に良かった」
「分かってるってば! でもやっぱりもう逢えないのが寂しいの! さよならくらい言わせてくれても良かったのにさ、絶対僕らが気づかない隙を突いてこっそりアリスを帰しちゃうなんてちょっと酷すぎないってそう思っ――いたっ!」
 一息で毒づくルイスを、ごつん、とキャロルが本の角で殴って黙らせた。溜息を付いて、遠ざかっていく十字架を見つめる。
「あれが最後の境界線だったからね。僕らの、生と死の」
「あの子は何が原因だったのかしら……今はもう目を覚ましてるのよね?」
「……ああ、バスがどうのって言っていたから、多分事故か何かだったんだと思うけれど」
「ふぅん………」
 キャロルの本のページが、静かに風に揺れる。仮初の星空の世界に、吹き込んで来る本物の風。顔を上げると、鍾乳洞の出口がぼんやりと光って見え始めていた。感慨深そうに、チェシャーが溜息を付く。
「そろそろお別れかもね。この先はどの駅まで行くか人それぞれだから。貴方たちはどちらまで?」
「…多分、僕とルイスは一緒の駅だと思う。どの駅までだったか…まだまだ遠いのは確かだよ」
「そう! そう! 僕とキャロルはずっと一緒なんだ。そうそう、だから僕アリスがいなくても寂しくないよっ!」
 痛みで突っ伏していたルイスが、急に元気を取り戻して顔を上げた。その笑顔を見て、チェシャーはゆっくりと目を細めた。二人の兎に微笑みを向けると、ゆらりと尻尾を揺らして、立ち上がる。
「私は次の駅で降りるの。短い間だったけど、楽しかったわ」
「……そう。じゃあ」
「ええ」
「うん、またねっ」

『良い目覚め(人生)を』

『良い目覚め(人生)を』




Fin


08年 文芸部誌「游」 新入生紹介号掲載

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