オルゴールが歌っている。
 世界の外れの丘の上で、オルゴールが歌っている。


 歌うように前置きして、吟遊詩人は、竪琴を奏で始めた。


°・ ♪ ・ 。


『――風に恋をした春の日に』

 硝子のように美しい歌声が、静かな世界の中を流れている。
 広い広い草原に、ぽつんと佇む大きな樹。その木の根元に、寄り添い、背中を預けて、歌い手の少女は座っていた。遠くを見つめる表情には、まだ少し幼さが残っている。
 翡翠の色を瞳に宿し、緩やかに波打つ髪は淡い桃の色。身に纏う素朴な白のワンピースには、幾重にも重なった金糸の刺繍。細い首筋と四肢を彩る小さな宝石飾りの数々は、虹の光をそのまま切り取ったかのようだ。
 耳元で、風と一緒に踊る髪に、少女はくすぐったそうに目を細めた。ひとつ息を付いて、一瞬途絶えた旋律を、また歌い始める。

『貴方の瞳の、夢を見る』

 遠く、遠く、誰かを呼ぶように。
 澄んだ音色を奏でながら、少女は透き通った蒼穹を見上げた。
 重なりあって、きらきらと緑の七色に光る木の葉の狭間から、太陽の光が降り注ぐ。広がる空は、今日もとても穏やかだ。
(―――あ)
 ふと、少女は小さく目を瞬いた。
 空の彼方、緑の地平線が青く霞むあたりで、白い何かが浮かんで消える。ひらりと揺れたそれは、蝶の群れか、あるいは鳥の影のようだった。だけど、そのどちらでも無いことを、少女は知っていた。
 陶磁器のように白い顔に、微笑みが滲む。

『遥かから響く子守唄』
 
 少女はなおも歌い続けた。
 くるりくるり、と遠くから金属の軋む音が小さく響く。遥か頭上、大樹の天辺に立っている風見鶏が、彼の訪れを告げる為、精一杯踊り歌っているのだろう。万の葉が囁く声に負けるまいと、張り上げられた掠れた声が、少女の元まで届く。
「…氷の海から、ヤシの木の葉陰まで、巡り廻った、おかえり、おかえり!」
 ああ、もうすぐだ。
(――おかえり)
 静かに瞼を降ろして、少女は、そっと右手を空へと差し出した。その右手に、ふわりと、暖かい温もりが触れる。指先を撫でて、腕から肩へ、頬へ、伝わっていく。

『貴方を愛した、永久の夢』

(――おかえりなさい。)
 そして少女が目を開けた時、もう其処には誰もいなかった。
 それでも幸せそうに微笑んで、少女は手の平の中へ視線を落とした。ふわりと揺れる、ふたひらの桜の花びらが、静かに其処に舞い降りている。

『いつまでも、いつまでも――』

 そっと指を曲げて花弁を閉じ込めると、冷たくて、本当に頼りなく儚げな感触が伝わってきた。この花が、此処からどれくらい離れた場所に咲いているのか、少女には想像もつかない。凄く凄く、遠くなのだと、いつか彼に聞いた言葉を、胸の内で想う。
 其処には、この花弁がどれほど沢山咲き誇っているのだろう。
(ありがとう。届けてくれて)
 どういたしまして、と照れくさそうに囁く声が耳を吹き抜けていく。消えていこうとするそれをそっと引き止めて、少女は歌い続ける旋律とは別の言葉を想った。
 彼だけには、それで伝わる。
(ねえ、今度は、どんなところを巡ったの?)
北極のオーロラから、白亜の間を通って、大西洋の上を。大きな大陸を一つ越えて、太平洋の島も沢山。太平洋の外れの小さな島国がちょうど春の季節でね、桜がとても綺麗だった。その花弁は、その時のものだよ
(……幸せだった?)
うん?

『――翼を抱いた、風の声……』

(みんな、幸せそうだった――?)




 °・ ♪ ・ 。


 ……むかし、むかし、かつてこの星に生きた者たち全ての記憶に尋ねても、誰も覚えていない程の、むかし――。
 神さまは、創りあげたばかりの僕らの世界に、贈り物をすることを思いついた。
 散々迷ったあげくに、神さまは、後に僕らが「オルゴール」と呼ぶことになる楽器を創りあげた。オルゴールは、演奏者がいらない自動演奏楽器だ。螺子が回り続ける限り、オルゴールは自分だけで歌い続けることが出来る。同じ旋律を、祈るように、何度も何度も……。
 雪のように白いそのオルゴールに、神さまは、魔法を掛けたたくさんの宝石や彫刻を飾った。空と海を祈るアクアマリン、星を祈るオパールや月長石、大地を祈るペリドットやガーネット、光を祈る金箔もあちこちに散りばめて――そしてそのオルゴールは、世界で一番美しく、繊細なものとして生まれたと、僕らには伝えられている。

 ――そのオルゴールには、世界の幸せを祈る歌が刻まれた。
 そして神さまは、生まれたばかりの風たちに、言った。
「オルゴールの螺子を回し続け、その澄んだ音色を、世界中に届けてやりなさい」
 そして、オルゴールに言った。
「世界の幸せを歌い続け、風たちの帰ってくる場所を、ずっと示してやりなさい」
 風たちとオルゴールは、その言葉に頷いた。
 やがてそのオルゴールは、世界の外れ、全ての風が生まれ、そして帰ってくる場所に、そっと置かれた。そしてそれから、ずっと、幸せを祈る歌を歌い続けている。
「じゃあ、今日も?」
「ああ、今日も」
 世界に風が吹く限り、オルゴールは幸せを祈る歌を歌い続ける。「自鳴琴」とか「風篠」とか、オルゴールにそんな別名を付けたのは、風からこの言い伝えを聞き取った、僕らの祖先なんだよ。


°・ ♪ ・ 。

 おしまい、と言って微笑む吟遊詩人に、私は少しだけ曖昧に笑った。
 私ももう子供じゃない。昔のように、何も知らず、ただうっとりと物語に想いを馳せることは出来ない。
「…幸せかな? この世界は」
「ああ、幸せさ。この世界は」
 あっさりと言ってのけた吟遊詩人に、私はため息で返事を返す。
「何となく、悲しい話。永遠に幸せを祈り続けさせられるなんて」
「そうかい?」
「だってそうでしょう? 世界が幸せになる日なんて、きっと来ない。誰かの幸せは、誰かの不幸せにだって成り得るのに」
 


°・ ♪ ・ 。

ああ――もちろんさ
 歌を奏で続ける、白亜のオルゴールを見つめて、風は微笑んだ。
ただ、其処に存在するだけで――

『届きますように』
『蒼穹の祈り』
『そして、どうかもう一度――』

『風に恋をした春の日に……』



°・ ♪ ・ 。

 世界の外れの、誰も知らない緑の丘。風の帰ってくるその場所で、ひとつのオルゴールが歌を歌い続けている。
 回り続ける世界の幸せを祈って、永遠の歌を歌い続けている。

『いつまでも、いつまでも――』


「それでも、幸せだよ。この世界は」
「だから僕らは、こうして生きていられるんだ――」















08年文化祭号 特別企画「みんなで書くとどーなるの?」掲載作品

お題
オルゴール・風見鶏・桜か梅を作中に出すこと
主人公が死なないこと
夢オチ禁止

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