それは、突然。首筋に、冷たいモノが触れたのが始まりだった。
 ふいに、刺す様に首の後ろに走った冷たい感覚。手をやってみると、そこに触れた指が僅かに濡れていた。
 嫌な予感を感じて、空を見上げる。それとほぼ同時に、地面のあちこちに小さな染みが生まれ始め――あっという間に、空から滝のような雨が降ってきた。

                          ◆

「…っちゃー…やっぱ雨雲の足には勝てなかったか…。大丈夫だと思ってたんだがなぁ…。…くそ、こんな急に土砂降りとか反則だぞ」

 あー、さっきの町の宿でまだ寝てれば良かった。

 何とか走りこんだ小さな洞窟の中から外を伺い、その青年は、不機嫌そうに眉を潜めて呟いた。あっという間に濡れてしまったその体から、ぽたぽたと雨の雫が滑り落ちる。濡れ鼠になっている為に少し妙な風体に見えるが、その服装から判断して彼は旅人のようだった。
 動きやすい服装に加え、背中には大きなリュックサック、そして見えにくい場所には護身用の武器が少々。一つため息をつき、青年は背負っていた大きなリュックサックを洞窟の床に置いて腰を降ろした。

「こりゃ今日はここで足止めだな。ついてねぇ」

 もう一度見やった外は、雨脚と共に風も強まってきていた。西の空も真っ暗で、とてもすぐには止みそうに無い。元からこの森は雨が多いと有名だったが、これほどまでだとは想像していなかった。一つ前の町では僅かに青空も見えていたし、雨の気配も無かったから、よほど駆け足でこの雨雲はやってきたのだろう。

「…の癖に全然止みそうにねえし。夕立ならもっとさっさと止めっての。…これじゃあせっかく遺跡探検しに来たのに台無しじゃねえか」

 ため息をもう一つつきながら、青年は濡れてしまった服と体を乾かす為に小さな焚き火を作り始めた。洞窟の中にも関わらず何故かあちこちに木の枝が散ばっていたのが救いとなり、たちまち火が灯る。
 その火に当たりながら、青年はもう一度外を見やった。雨と風は相変わらず吹き荒れている上、遠くからは雷鳴の音まで聞こえている。うんざりだと言わんばかりに肩を竦め、彼は視線を逸らした。――瞬間、

「だったら、アタシタチと遊ぼうヨ」

 ざあっ、と背中を悪寒が駆け下りた。
 雨で下がった気温のせいなどでは無い。まるで、冷たい舌に舐めあげられたかのようなこんな感覚、…知らない。
 目を見開いた青年は、頬を伝っていく冷や汗を自覚しながらも、その声の方を振り返った。…いや、振り返ろうと、した。回っていた首が、拒むように途中で動かなくなる。本能と呼ぶべき部分が警鐘を鳴らしている。  
 一度瞳を閉じ、青年はそれを無理やり意識の外へ追いやった。意思の力で、声の方を振り返る。…何を怖がっているのだ、自分は。馬鹿らしい!

「…こんにチは」

 視線の先、洞窟の入り口で。稲光に照らされ、その声の主の姿が逆光で浮かび上がる。同時に、青年の表情が緩んだ。
 ただの、小さな女の子だ。
 ほら、やっぱり脅えることなんて無かったじゃないか。

「お前、どうしたんだ? こんな所まで一人で来たのか?親か何かは?」

 体の力を抜いて問いかける。少女の口が小さく動いた。

「……ねエ…」

 青年は、立ち去った恐怖と安堵に包まれて気付かない。嵐の中に佇む小さな少女の異質さ、狂ったイントネーション、そして、

「…ん、それともこの辺に住んでんのか? あ、まさかと思うけど、もしかしてこの洞窟君の家だったりす――」

 その唇を彩るのは、美しい口紅の赤などではなく――

「………」

 笑顔を浮べたまま、少女が首を振る。そして、言葉を続けた。

「…アタシタチと、遊ぼうヨぉ」

 その笑みが、歪む。にい、とつり上がった唇に嗤いが浮かぶ。
 空気がざわめき、青年の表情が凍りついた。少女から生まれる淀みが波紋のように広がり、駆け抜ける。
 風が吹き荒れ、木の枝や木の葉が叩きつけるように洞窟の中へ吹き込み、それを合図とするかのように、洞窟の影という影が伸び上がり――それは、青年の勇気を挫くには充分過ぎる光景だった。

「ひっ、あ…あ……うわぁああああッ!」

 血相を変え、焚き火を踏みつけ、嵐の中に青年が飛び出していく。それを目を細めて見送った少女は、ゆっくりと洞窟の方を振り返った。

「…ミンな、一緒に遊ぼウよ」

 笑顔の先で、洞窟の中を無数の黒い手が蜘蛛のように這いずり回っていた。血痕の足跡を印しながら、それら全てが少女に向かって集まっていく。ぼたぼたと血が滴り落ちる音が洞窟中に木霊した。
 稲光が、もう一度少女の横顔を照らす。雨に濡れても洗われる事のない血染めのワンピースに、血で斑に染まった長い髪。満面の笑みを浮かべて、少女は青年の逃げていった方へ顔を向けた。

「……鬼ごっコで遊ぶのお…? ふふッ。じゃあ、アタシタチがオニにならなきゃねえ。鬼さんコチラ、手のナる方へ…きャはハはははッ!」

 歌うように笑いながら、少女が楽しそうに走り出した。むしろ、その笑みの色は狂気に近い。真っ赤な足跡が、てんてんと森の大地に刻まれていく。森の木々の影が、少女に合わせてざわめいた。

                           ◆

「ぜ…っ…は、はあ……、…ッ」

 上がり始めた息を飲み込み、青年は後ろを振り返った。もう随分走っているはずなのに、追ってくる少女の足は全く緩まない。森の出口も見えてくる気配がない。雨で視界と足場も最悪だ。いつ転んでもおかしくない状況に、青年の顔に焦りが浮かび始めた。…刹那、

「……ぅあッ!?」

 何かに足首を取られ、バランスを崩した体が地面に叩きつけられる。
痛みに顔を歪め、悪態をつきながらも青年は体を起こそうとして、…次の瞬間、異変に気づいて青ざめた。
 自分の足首が、…動かない?
 張り詰めて、敏感になった神経が、足首が何かに掴まれている事を脳へ伝える。そして、動けない青年の肩や腕に、次々に同じ感覚が生じた。
 …まるで、何か≠ェ青年を絡み捕ろうとするかのように。
 先ほど洞窟の中で見た黒い腕が脳裏を掠める。推測された事態、頭に浮かんだ光景に、青年はパニックになった。

「…あ…あ、っせ…放せええッ!!」

 絡みついた何かを思い切り振り払い蹴り飛ばし、何とか跳ね起きる。振り払った瞬間に散った赤い液体を乱暴に拭い、青年は足の向いた方へがむしゃらに走り始めた。幾つもの木立を、無理矢理潜り抜けて逃げ続ける。今どの辺りを走っているのかももう分からない。自分の荒い息と鼓動の音がうるさくて、何も聞こえない。恐怖で、後ろを振り返る事も出来ない。…振り返ってはいけない。
 もしも、少女との距離がすぐ近くまで狭まっていたとしたら…。

「……つーかまーえタぁ」

 ぞく。
 耳元で聞こえた声に、青年の思考が硬直した。気配は全く無い。あるのは、背中に氷塊を押し当てられたような冷たい感覚だけ。そして、一時の間を置いて、青年の耳に、ぬちゃ…と気味の悪い音が届いた。背中に、誰かの手が触れたような感覚が伝わる。額に浮かんだ冷たい汗の粒が、滑り落ちて雨粒と共に地面へ落ちた。
 見てはいけない。振り返ってはいけない。
 少女などいない。これは幻聴だ。これは、幻覚だ。
 止まってはいけない、走り続けるんだ。
 前だけを、前だけを――

「何処までイくのお?鬼ごっこはもう終ワリ?あははハッ…今度は何しテ遊ぶ?滑り台で遊ボうか?」
「……う…るさいっ…、うるさい、消えろ消えろ消えろぉおっ!!」


 …ざあっ!


 突然、視界が開けた。
 森を抜けたか、と期待に輝いた青年の瞳から光が消える。
 目の前に広がっていたのは、奈落に向かって垂直に伸びた崖だった。
 向こう岸までの距離は大きく、狂ったように周囲を見渡してみても、渡れるような橋はどこにも見当たらない。そして、逃げ道を求めて、…青年は反射的に後ろを振り返ってしまった。
 稲光が走り、そこにいた少女の姿が浮かび上がる。初めて直視したその姿に、見開かれた青年の瞳が凍りついた。

「…っ、…ぁ…あ……」
「……ふふっ。…ねえ、一緒に、遊ぼうヨぉお」

 顔の半分が潰れた少女が、唇を三日月の形に歪めて微笑んだ。少女を取り巻いている無数の黒い腕が、蟲のようにざわめく。とうとう動けなくなった青年の足元からも黒い腕が突き出し、その足を掴んだ。逃がさない、と言わんばかりにそのざわめきが歌う。
 恐怖で震えながらも、身動きの出来ない青年は少女を見つめるしかない。そして、微笑んだ少女が指差したのは、青年の前に立ちふさがる奈落。見開かれていた瞳が、死の恐怖に彩られて震えだす。

「…い…やだ…放せ、放し、て、くれっ……」
「……だーめ」

 首を振り続ける青年に歩み寄り、少女は楽しそうに嗤った。

「一緒に、滑り台シよウヨ?」

 黒い腕が、青年を捕らえたまま静かに滑り出す。少女もまた、奈落へと続く滑り台へ歩いていく。青年の瞳に最後に映ったのは、本当に嬉しそうな、少女の歪んだ笑顔だった。

「ねえ、コレカらモずっト、一緒に遊んデくれルヨネ」

 黒い腕が大きく振られる。放られた青年の体が宙に浮かぶ。見下ろした先に地面はなく、雨煙に遮られて奈落の底は何も見えない。その視界を掠めて、少女が奈落の底へと吸い込まれていった。そして、次の瞬間、

スプラッシュ
  水  の音が、響く。


…………


「……シェスカ、掴まれッ!」

やがて、真っ暗だった視界に、陽の光が差し込んだ。

                           ◆

 青年がいたその森は、遺跡のある珍しい森として旅人の間では有名だった。青年もまた、その遺跡探検を目的としてやってきた旅人の一人だった。
 しかしその遺跡は、珍しいとは言えども、世間で有名になるほどまでの曰くは無く、さして巨大でもなく、近隣の住民達は只の普通の遺跡としか受け止めていなかった。
 その遺跡が生まれた原因など、誰も知りよしはしなかったのだ。
       
 戦火の爆風
 突然訪れた 人災 で、一瞬にして滅んだ街。別れを告げる間も無く、街で遊んでいた子供たちも、学校で学んでいた学生たちも、働いていた大人たちも笑っていた人々も泣いていた人々も、全てが、一瞬で、何が起きたのか理解するよりも早く。
 彼らは、地上から消し去られた。
 たまたま頑丈に出来ていた建物を残して、その街もまた消えてしまった。
 故に、その遺跡が生まれた原因、そこにかつて在った街が滅んだ原因など、誰も知りよしはしなかったのだ。


  サミしイノ さミシいの
   お母さンも お父サんモ 友達のみんナも 誰モいない
    誰もイナイ  私 一人ダケ 誰モ イナイいナイいなイイナイ
     サミシいの  サミシいノ  サミシクテタマラナイノ


 ネエ  ダカラ
    イッショニ アソンデ クレルヨネ


『自縛霊となった少女の零した涙が、森に降り注ぐ豪雨に影響をもたらし、少女と共に霊となった街の人々はあの黒い腕だと推測される。あまりにも急激な死を理解する事が出来ず、昇天出来なかったのだろう。
 …そしておそらく、その黒い腕の霊たちの中には、運良く助かった私とは違い、彼らの中に引きずり込まれ霊となってしまった旅人も含まれていると思われる。
 孤独の苦しみから自我が崩壊し、狂ってしまった少女の霊が今どうなっているのか私に知る術は無いが、あの時、あの黒い腕たちと共に無事に天へ召された事を望まざるを得ない。
 ……しかし、あの森で、永遠に一緒に遊んでくれる、孤独を癒してくれる誰かを、今もまだ探している可能性を否定する事は出来ないだろう』

                  ウェルラの森におけるセクアーナ遺跡の最終調査報告書
                              考古学者 シェスカ=シュリアーサー




「ネエ、一緒ニ 遊ボウヨ」


     歪む少女の笑顔 その頬を滑り落ちる涙は赤く、紅く

                                ……ぼたぁ り。



2007年 文藝部誌「游」 卒業の号掲載 大文芸帝国十周年記念特別企画作品


そんな訳で、人生初ホラー小説でした。懐かしいなぁこれも…!
ちなみに企画とは、文藝部全員でくじを作り、その中から各々が引いた単語、作風、条件を元に短編を書くぜ!って感じのものでした。
ちなみに自分が引いたのは「滑り台」「ホラー」「天気は大風の大嵐」。
ホラーが駄目だったのでがくがくぶるぶるしながら書いてた記憶があります´v`*
それにしても…何ていうかコレはホラーっていうか…グロ? 寄り?;
ホラーなんてどう書けば良いかさっぱりだったので、とりあえずエグくしとけ!でやっつけ感満載だった記憶がそういえば微かに ノワ`;
でもなんだかんだ楽しかったですv
inserted by FC2 system