これは、だあれも知らない、ある日の夜の小さな物語。
こっそり教えてあげましょう。
これは作り話だから、信じたら駄目よ。
そう。先生が考えた作り話なの。
これは、作り話だから、信じたら駄目よ。
分かったわね?
そこは、魔法の世界でも無ければ、遠い遠い昔の時代でも無いの。
現在の、普通の学校での小さな物語。
◆
夏のある日の夜のこと。
誰もいなくなった学校は、静かに夜の闇をまとっているばかりで、昼間の顔とはあまりにも違う。太陽と共にある、生徒達の笑い声や足音、先生達の教科書を読み上げる声や話し声や時折の怒鳴る声、それら全ては夕日と共に消えていくから。夕日が沈んで、教室の最後の灯りが消され、校門に鍵が掛けられた時。
夜の学校が、目を覚ます。
幽霊が廊下を渡り歩き、ピアノが勝手に鳴り出す――という訳では無い。そんな事は、物語の中だけで充分だ。
夜の学校は、ただ静かに闇のマントをまとって眠っている。
時々寝言のように手洗い場の蛇口から水滴が落ちる音や、教室の換気扇のカラカラという小さな音が響くばかり。それ以外は、本当に何の音も無く、ただ窓から月明かりが差し込んでいる。
それは、そこでも同じはずだったのだけど。
校舎の端にある、小さな保健室。もちろん夜にこの部屋が開くことは無い。この部屋は眠っている。……そう、いつもなら。
チリン、という透明な音が夜の静寂を破った。
◆
一目見ただけなら、その風景はいつもの夜と変わらない。夜の闇をまとって、月明かりを映して眠っているようにしか見えない。
昼間なら、とっかえひっかえ出番が回ってくる体温計もケースの中。包帯や氷枕や消毒液も、動かされる事は無く、そこに佇んでいるだけ。……だが。
チリン。
もう一度、あの音が響く。
その保健室は、普通の学校にしては珍しく、隅の壁の方に小さな台所があった。昔から、幼心に私は不思議に思っていたが、多分お湯を沸かすのにでも使うのだろうと勝手に一人で結論づけていた。……小さかった私には、何故保健室にコンロや冷蔵庫はともかく電子レンジが置いてあるのかが全く分からなかったので、そこは考えないようにしていたのだが。
その、月明かりの届かない部屋の隅で。台所の上で。……その、どう見ても保健室には不似合いだった電子レンジの上で。
夜の静寂が、動いた。
チリン、という音がして。その闇が動く。すとん、と電子レンジの上から闇が床へと飛び降りる。やがてその闇は、月明かりが届く所まで歩を進めた。その真っ暗闇な姿が浮き彫りになる。
……黒猫。
私が知っている一番近いものは、それだ。でもどうして夜の保健室に黒猫がいるのだろうか? 自問自答してみるが、もちろん、その問いに答えは返ってこない。
私が見ている前で、その猫は音も立てずに何かを探すように部屋の中を歩き始めた。足音の代わりのように、チリンチリンと首に付いている鈴が鳴る。夜の静寂が、ふるふると震えて消えていく。
外は闇。月に照らされて、闇はさらに濃さを増し、黒の濃淡だけの世界が、地球の自転に合わせてゆっくりとその姿を変えていく。その保健室の中も同じく、窓から差し込むスポットライトは刻一刻と、ゆっくりと、だが確実に動いていく。その動きに合わせ踊るように、保健室の風景も機械的に変わっていく。猫だけが、その理から外れていた。
…やがて、目的の物を見つけたらしく、その猫は机の上へと飛び上がった。かたん、という何かを開ける音と、がさがさという小さな物音を響かせた後、口に何かを咥えて顔を上げる。
一枚の、小さな絆創膏。
猫は悔しそうに――とにかく私にはそう見えた――机の上に開きっぱなしになっている薬箱と絆創膏の箱を振り返った。絆創膏に視線を注いでいるから、……おそらく、その小さな口に絆創膏が一枚しか咥えられないのが悔しいのだろう。不機嫌そうに一度尾を振って、猫は床へと飛び降りた。そのまま、器用に保健室の扉を横へとスライドさせる。……鍵が掛かっていると思われたのだが、それはいとも簡単に開いた。何の音も立てずに。
自分の顔と同じ幅だけ扉を開けて、するりと猫は部屋の外へ出て行った。チリン、チリン、と猫の足音が遠のいていく。四角く切り取られた月明かりが、黒猫に遮られて形を崩した。
私はその後を追った。
◆
鈴の音と共に、猫は階段を登る。しっかりとその口に絆創膏を咥えて。……二階。三階。そして、四階。校舎の最上階。猫は、階段を登り終えると、迷うことなく真っ直ぐ歩を進めていく。どうやら、廊下の端の理科室へと向かっているらしい。
先ほどと同じく、猫は音も立てずに扉を開いた。チリン、という音だけを残して、理科室の中へと消える。……一体何をしようとしているのだろうか。
……にゃあ…。
チリン、という鈴の音以外の音が、初めて夜の闇を遮った。絆創膏を床へと置いて、猫は鳴いている。……泣いている。
誰もいない理科室で、その黒猫は、普通の猫がするようにソレに頭を摺り寄せていた。ソレは、そうされても猫へ視線を向ける事はなく、ただ、ただ、前を見つめている。
学校にある、一番人に近くて、一番人に近くない物。
猫は、鈴の音と共に泣きながら、人体模型に尾を絡ませていた。月の光が、その二人を影として床に映し出す。
……やがて、猫はその人体模型から離れて、絆創膏を口に咥えた。置いてあった床から、さらにその人体模型の近くへと絆創膏を移動させる。そして、その金色の瞳で、じっと人体模型を見上げる。もちろん、その視線に答える者はいない。
猫は、最後にもう一度だけ、人体模型に頭を摺り寄せた。それはそれは、愛おしそうに。
……にゃあ。
ねえ、聞こえているんでしょ。動けないだけなんでしょ。
声が出せないだけで、涙が零せないだけで、
本当は痛いんでしょう?悲しいんでしょう?
だって、そんな姿になってしまって。
痛くないはずが無いじゃない。悲しくないはずが無いじゃない。
……私にはこれしか出来ない。だからせめて。
だからせめて、私は。
貴方が私を忘れてしまっていたとしても。
私は貴方を忘れないから。
ずっと、ずっと、ここに在る限り。
鈴の音と泣き声がもう一つだけ。
そして。夜の闇に溶ける様に、その猫は突然掻き消えた。
月明かりと私以外に、それを見ていた者はいない。
◆
僕は先生からその話を聞いて、信じてない顔をしながらこっそり理科室に行ってみたんだ。そうしたら。人体模型の足元に、たった一枚、絆創膏が落ちていた。
もちろんそれを先生に教えてはいない。信じてないフリを続けてる。本当は、僕は知っているんだから。
夜の学校は眠ってるだけじゃない。そう、物語みたいにたくさんの声や思いが起きて動いてる。僕らはそれを知らないだけ。だって、日が沈んだら追い出されちゃうもんな。そう。僕は知ってる。
ねえ、保健室の鈴夜先生。この前先生の手に触った時、手首の脈が無かったのはどうしてですか?
Fin
2006年 文藝部誌「游」 文化祭号副読本掲載
企画:みんなで書くとどーなるの?作品
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